「葉桜」になっても
満開の桜しか観ないで本当に桜の良さが分かるのだろうか...
NHK連続テレビ小説「らんまん」には、印象的な言葉(台詞)が度々出て来ます。4月28日放送の第20回では、万太郎がシーボルトの著書のスケッチを見てこう言いました。
「うまいけんど、ひととこしか描いちゃんせん。ほんとはもっと季節毎に描かかんといかんがです。そうでないと植物の本当が判らん。」
この台詞を聞いて、「満開の桜しか観ないで本当に桜の良さが分かるのだろうか」との言葉と、一句の和歌を思い出しました。
もう誰もふり向かぬ葉桜の道
(稲畑汀子(*1)、ホトトギス、200205)
この句の如く、殆どの桜は葉桜(*2)になると翌年まで人からもSNS・マスメディアからも忘れ去られますが、名木と言われる桜は、四季を通して桜守(さくらもり、*3)と呼ばれる園丁(えんてい)の方々によって見守られ手入れされてます。
桜は季節が巡り来れば再び美しい花を咲かせますが、人間は一度限りの儚(はかな)い存在です。桜を愛でる和歌は無数と言っていいほど詠まれていますが、人生の縮図や無常観を日本人は悟り受け入れ、和歌に想いを託してきたのでしょう。
ところで、先ほどの万太郎の言葉を聞いて思ったことが他にもあります。
-桜を桜守が四季を通して世話する如く、人間を分け隔て無く“人生の四季”を通して世話して下さるお方がおられること
-“人間の本当”を見る目を持つそのお方は、一人ひとりの本当の姿(真価)を見て下さること
です。そのお方の言葉が聖書にこう書かれています。
~聖書の言葉~
「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。/あなたがたは、わたしをだれにたぐい、だれと等しくし、だれにくらべ、かつなぞらえようとするのか。」(イザヤ46:4-5、口語訳聖書)
母親の胎内で私たちを形づくり命を吹き込んで下さった創造主は、年老い衰える迄私たちを分け隔て無く永久(とこしえ)に面倒見ようと言われます。
そのお方、救い主、イエス・キリストは、一つの譬を用いてご自身を明らかにしておられます。
「そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。/すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。」 (ルカ13:7-8 、口語訳聖書)
【メモ】
(*1)稲畑 汀子(いなはた ていこ、1931-2022)は俳人高浜虚子の孫。
(*2)葉桜は桜の木全体が若葉で覆われる頃までの事を言います。
(*3)丸谷馨(まるやかおる)著、『日本一の桜』、講談社現代新書、2010年、P.83