「ドングリの背比べ」
今年のドングリ(くぬぎ)は、やや小粒ながらも豊作でした。「ドングリの背比べ」とは、「どれもこれも似たり寄ったり者な同士が競い合っている様子。抜きん出た者がいないこと」ですね。
今年のドングリ(くぬぎ)は、やや小粒ながらも豊作でした。
「ドングリの背比べ」とは、「どれもこれも似たり寄ったり者な同士が競い合っている様子。抜きん出た者がいないこと」ですね。
「人との比較」でネット検索してみました。すると、な、なんと13億件以上もヒット!
・人と比較しない生き方・著名人の名言...
・比較癖をやめてラクになるコツ...
・人と比べることや競争がむしろ人間の普遍的な心理...
どうやら「ドングリの背比べ」は“人の性(さが)”のようです。
向上心は大切ですが、この世での優劣は一時的で、あの世では無意味なことは周知です。それでも私たちは「ドングリの背比べ」をして一喜一憂してしまうのです。
聖書に、共観福音書全てに、主イエスの弟子たちも「ドングリの背比べ」をしたことが書かれています。しかも主イエスが人類の罪を十字架上で贖うため、エルサレムに向う道中に、です。
…イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。/彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。 (マルコ 9:33-34 口語訳)
主イエスがエルサレムに行く目的は地上的な神の国を樹立するためだと誤解していた弟子たちは、新たな国の階層や序列ばかり気になり、互いに比較し合い偉さを競い合っていたのです。
この「逃れ難く如何ともしがたい欲求」の根本的解決を、主イエスは教えて下さりました。
そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。/そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。/「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。 (マルコ 9:35-37 口語訳)
要するに、
・神の目に一番偉いのは、謙って自分を低くする人です。
・謙る人は,弱小者を見下さず受け入れることができます。
イエス・キリストはご自身を最も低くして、私たちの罪を負って十字架上で身代わりに死んで下さり、私たちに仕えて下さりました。
神が私の救いのためにそこまで謙って下さったことを知る時初めて、私たちは「ドングリの背比べ」と言う“人の性(さが)”、罪深さから解放されます。
【豆知識】
「人の性(さが)」について https://www.weblio.jp/content/人の性 にはこの様にあります。
人間なら誰もが生まれながらに持っている(もって生まれた)普遍的で多分に本能的な性分・傾向を指す表現。人間性の高潔さという観点からは打ち克つべきといえる弱さ・卑しさ・いやらしさの現れであり、どんなに高潔な人格でも完全には逃れがたい種類の(いかんともしがたい)欲求である、といった軽い諦念を込めて用いられることが多いといえる。
【撮影メモ】
写真1,2 2021-11-7 撮影
写真3 2021-11-26 写真1,2と同じ木を撮影
【インスタグラムでのハッシュタグ】
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