聖歌229番 『 Amazing Grace 』 (驚くばかりの)
この曲は「ドレミソラ」の5音、音楽用語でペンタトニックスケールと言われる5音音階を用いて作られています。そしてその音階は何と「日本的な音階」、または「ドレミファソラシド」の第4音のファと第7音のシが抜けているので「ヨナ(4,7)抜き音階」と言われる音階と同じなのです。
※本稿は、JCCC(シンシナティ日本語教会)T.Nさんのエッセイです。
“Amazing Grace”
10月29日の「岡本先生と共に味わう賛美の力」の時間は、まさに「賛美は力である」という事を改めて実感した時間でした。それはYokoさんが作成した、彼女の美しく力強く、また痛みと悲しみを伴った歌とピアノの演奏から始まりました。
https://www.youtube.com/watch?v=KaoNvYJ0Nd8&list=PLIPYtJeHvvsSJbrir1gq9sx1OYRo5-drx&index=1&t=91s
それはこの曲の内容、そして背景を歌い上げた心を揺さぶられる素晴らしい賛美でした。
そして岡本先生による作詞者のジョン・ニュートンの紹介、奴隷商人であった事、後に牧師となってそれまでの人生への悔い改めと救いの感謝の中で「Amazing Grace 驚くばかりの」の作詞をしたというこの歌詞の作成過程のお話があり、次に本題である第3節以降の歌詞の源となっている参照聖書箇所を用いたメッセージを話されました。岡本先生の一語一語に及ぶ丁寧な解説は、始めはいつもの先生の語り口同様に穏やかに始まったのですが、次第に熱を帯びて、救いの恵みを語る先生の声は私たちの心を直撃していきました。この時間、この時そのものが Amazing Graceでした。
個人的な事ですが、私の英語の先生の一人が黒人のゴスペルシンガーでした。彼は自分の祖先の事(鶏小屋の上に住んでいた事)や、黒人霊歌の成り立ち、信仰の事などを、今尚痛みと苦しみにある黒人の立場で語ってくれました。それを思い出し、更に今回の学びは心に響きました。
もう一つ、Amazingな事をシェアさせていただきたいと思います。
この曲の作曲者は不明という事ですが、作詞者のジョン・ニュートンと同時代か少し後の人ではないかと思われます。
この曲は「ドレミソラ」の5音、音楽用語でペンタトニックスケールと言われる5音音階を用いて作られています。そしてその音階は何と「日本的な音階」、または「ドレミファソラシド」の第4音のファと第7音のシが抜けているので「ヨナ(4,7)抜き音階」と言われる音階と同じなのです。
例えば「咲いた咲いた、チューリップの花が…」「夕焼け小焼け」などの童謡を始め、演歌や歌謡曲など様々な日本の曲がこの「ヨナ抜き音階」で作られています。「君が代」もそうです。
ただ、これは真の意味で日本特有の音階ではありません。例えばスコットランド民謡である「蛍の光」や、アイルランド民謡、北欧、アフリカ、先に挙げた黒人のブルース、南米諸国(例えばアンデスの民謡など)、アジア各地など世界の多くの地域にこの5音音階で出来たメロディーがみられるのです。シューベルトやドビュッシー、ドヴォルザーク(「新世界」等)等々クラシックの作曲家達もしばしばこれを用いています。そしてこの5つの音だけで作られているメロディーは人の心に郷愁、哀愁、または何かを懐かしみ求める感情を生み出します。
グローバル化とは程遠い昔から世界中の民族が持つ哀愁を帯びた民族音楽や俗謡や、愛の歌に5音音階が使われている理由、それは何故か未だに解明されていません。
一つはキリスト教の宣教が始まってその典礼が世界各地に伝わっていった事があげられます。言葉も習慣も人種も違う人々に伝える一つの方法としてラテン語ミサのように複雑な音階ではなく、言葉の抑揚として始まったのではないかと思えます。それでも尚、宣教の典礼文が世界各地で同じような作用を起こし、民謡化していったからであるというだけでは説明には足りません。
逆に宣教がなされる前に既に世界中に似た旋律があったからこそ宣教の手段として有効であったのではないかとも考えられるからです。
私は、この「世界に共通の音がある」という事は正に神様の偉大な憐れみと恵みではないかと思うのです。創世記の昔、神様は怒りを持って全ての地に人を散らされ、言葉を乱されました。でも、神様は人間が音楽をする事は取り上げてしまわれなかった…共通の音によって一つであった言葉と神様の霊的な祝福を思い出すのではないかと私は思うのです。それは、国も時も越えた壮大な「Amazing Grace」ではないでしょうか。(T. N)