久しぶりに訪れた水族館で私を迎えてくれたのはクラゲでした。
「癒やされる~」と見つめるうちに、「スクランブル交差点を行き交う人々みたい」とも思いました。
では、俳句ではどうだろう? とネット検索して見つけたのが、清水哲男氏の「増殖する俳句歳時記」。ここから抜粋してご紹介します。
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〈 乳いろの水母流るるああああと 〉
吉田汀史 (よしだ ていし)、近年まで俳誌『航標』を主宰
季語は「水母(くらげ・海月)」で夏。もしも「水母」が鳴くとしたら、あるいは啼くとしたら、なるほど「ああああ」でしかないように思える。「ああああ」は「ああ」でもなく「あああ」でもなく、人間にとっての究極的かつ基本的な絶望感の表現に通じている。おのれの弱さ、無力を自覚させられ、絶望の淵に沈み込んだとき、言葉にならない言葉、言葉以前の言葉である「ああああ」の声を発するしかないだろう。その意味では、この「ああああ」は、逆に言葉を超えた言葉でもあり、あらゆる言葉の頂点に立つ言葉だとも言える。水母の身体の98パーセントは水分であり、寿命の短い種類だと誕生後の数時間で死んでしまうという。まことにはかなくも希薄な存在だ。そんな水母が波に漂い翻弄され、「ああああ」と声をあげている様子は哀切きわまりない。《中略》 となれば、たとえば反対に、水母から見た人間はどうなのだろうか。私たちは自力で歩いているのだが、彼らにはただ風に漂い翻弄されているだけと映るかもしれない。それも、やはり「ああああ」と啼(な)きながら……だ。句からは、水母のみならず、生きとし生けるものすべてが「ああああ」と流されていく弱々しい姿が、さながら陰画のように滲んで見えてくる。
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「ただ風に漂い翻弄されているだけ」と水母には映るかもしれない人間は、聖書の神にはこう映っています。
「わたしの民は、迷った羊の群れであった。その羊飼いたちが彼らを迷わせ、山々へ連れ去った。彼らは山から丘へと行き巡り、休み場も忘れた。」(エレミヤ50:6、新改訳2017)
まことの神に背を向けた結果、偽りの羊飼い(指導者)たちのもとで〈彷徨う羊〉と映っていると聖書は言います。しかし神は、彷徨う羊を見捨て置かず、救い主イエス・キリストを私たちに遣わして下さりました。ここに希望があります。もう啼かないでいいのです。
「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。」(Ⅰペテロ2:24-25、新改訳2017)
これ以上の何ものも必要としない癒やし(ヒーリング)が与えられるからです。