「主の慈しみは、とこしえに(2)」

「主の慈しみは、とこしえに(2)」

103:6 主はすべてしえたげられる者のために/正義と公正とを行われる。
103:7 主はおのれの道をモーセに知らせ、おのれのしわざをイスラエルの人々に知らせられた。
103:8 主はあわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。
103:9 主は常に責めることをせず、また、とこしえに怒りをいだかれない。
103:10 主はわれらの罪にしたがってわれらをあしらわず、われらの不義にしたがって報いられない。
103:11 天が地よりも高いように、主がおのれを恐れる者に賜わるいつくしみは大きい、
103:12 東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。
103:13 父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる。
103:14 主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを/覚えていられるからである。
103:15 人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。
103:16 風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。
103:17 しかし主のいつくしみは、とこしえからとこしえまで、主を恐れる者の上にあり、その義は子らの子に及び、
103:18 その契約を守り、その命令を心にとめて行う者にまで及ぶ。
103:19 主はその玉座を天に堅くすえられ、そのまつりごとはすべての物を統べ治める。
日本聖書協会『口語訳聖書』詩編 103篇6-19節

1.はじめに
この詩篇では、私たち人間が「弱くはかない存在」として描写されてはいるものの、神は「父がその子供をあわれむように」私たちに関わって下さることが私たちに伝わって来ます。ですので、御言葉がすんなりと入って来てホットした気持ちになれます。そういう魅力が今日の詩篇にあります。

2.この詩篇に秘められた福音
今日の6~18節では、私たちの主でいて下さる神の御性質について、「正義と公正とを行われる」「あわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊か」だと何度も繰り返されています。私たちの神はこの様なお方だと嬉しくなってきます。さらに「主」を「主イエス」と読むと、イエス様を身近に感じることが出来ます。この詩篇103篇が大いに福音的な詩篇と言われる所以です。

3.神は人間にどう関わって下さるか 
 103:6 主はすべてしえたげられる者のために/正義と公正とを行われる。

神の御性質の第一として、「正義と公正とを行われる」ことがあげられています。これであってこそ、神は偉大なお方でありえます。私たちが聖書を読む時、「正義と公正とを行われる」神がハッキリ判ります。なぜなら、
 103:7 主はおのれの道をモーセに知らせ、おのれのしわざをイスラエルの人々に知らせられた。

と書かれているからです。「主が約束されたすべての戒めと報いを忘れてはいけない」、「イスラエルの民の歴史を振り返って彼らの轍を踏まないように」と私たちを教えています。主イエスはこのことを当時の宗教的指導者たちに繰り返し教え戒められました。イエスが朝早くから宮で民を教えた時もそう教えられたことでしょう。神の御性質について他にもあげられます。 
 103:8 主はあわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。 
 103:9 主は常に責めることをせず、また、とこしえに怒りをいだかれない。

この8-9節は、マルコ10章に記された主イエスを思い起こさせます。一人の資産家が、自分の善行に主イエスのお墨付きを得て拠り所にしようと、悪く言えば自惚れて、主イエスに走り寄り御前にひざまずいて「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」と尋ねた時のことです。
 マルコ10:21 イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。

また、これは遠い過去のことではなく、今も主イエスは聖書の御言葉を通して御霊を遣わし、「神の道」と「神の御心と振る舞い」を私たちに教えて下さっています。
 103:10 主はわれらの罪にしたがってわれらをあしらわず、われらの不義にしたがって報いられない。

数多の罪人を受け入れ、手ずから病を癒やし、自ら罪人を尋ねて行かれた主イエスの姿を思い起こします。ところが私たちには考えも及ばないことですが、世の中には無条件での罪の赦しや“気前の良い”神を連想する方々もおられるようです。しかし10節は、主イエスの十字架が前提になっています。神は、「あわれみ、めぐみふかくいつくしみ豊か」なかたであるが故に、罪無き神の一人子に私たちの罪を負わせることで、「正義と公正」とを同時に行われます。十字架にかけられた犯罪人のひとりと、彼に向けられた主イエスの言葉に聞きましょう。
 ルカ23:42-43 …「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。/イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

主は、救い主イエスへの信仰に報いて下さります。これ程の罪の赦しは、この世にはありません。
 103:11 天が地よりも高いように、主がおのれを恐れる者に賜わるいつくしみは大きい、

ここでは神と人との関係が言われていますが、神は私たち人間とは掛け離れた存在だとか、人間に無関心で、天から見下す得体の知れない存在だとかは言ってません。また、「主を恐れる」とは主を怖がることではなく、畏敬の念から生じる謙遜をもって主の言葉に聞き従うことです。そのような人に神は「私たちの思いと掛け離れた大きないつくしみ」をもって、主の十字架を地上に打ち立てることで私たちのごく身近にいて下さります。これは私たちも体験させていただいています。私たちが主の祈りで「我らの罪をもゆるしたまえ」と祈れるのは、祈りを聞いて下さるお方が「おのれを恐れる者に賜わるいつくしみは大きい」からに他なりません。
12節は、神と人との関係に引き続いて、神が人の罪をどう扱われるかです。
 103:12 東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。

当時、「東」とは「日の出」、「西」には「日の入り」という意味がありました。つまり、神の摂理のもとでは、日の出と日の入りが一日のうちで最も隔たっているように、「おのれを恐れる者に賜わるいつくしみ」は、罪の裁きを私たちから無限に掛け離れたところに隔てて下さります。
13節では、神が私たちに「あわれみ」を教えるその仕方が、父と子のたとえで教えられています。 
 103:13 父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる。

この表現は、誠に遺憾ですが、親の役割を理解しなかったり果たさなかった親に育てられた人々には伝わりにくいです。とは言え、もし私たちの地上の親が不完全・不真実であったとしても、人類を創造された神は父として完全であり真実なお方ですので望みはあります。神は私たちに深い関心を現し、神の側から私たちと関わりを持とうとして下さるからです。ただ、神のあわれみは、溺愛でも放任主義でもありません。その子が人間としてさいわいに生きられるよう、永遠の命を持てるように躾けます。そのことが次のように記されています。
 ヘブル12:6-7、10-11 主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。/あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。//肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。

神が私たちにそうされる訳が14節以下に記されています。 
 103:14 主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるからである。 
 103:15 人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。 
 103:16 風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。

「われらのちりであること」という表現は、人間の価値が塵ほどでしかないと言っているのではありません。正反対のことが言われています。聖書は、主御自身が人間をちりから創られたことを決して忘れていないことを強調しています。私たちが何からどのように、そして何のために創られたのかを、神は覚えてくださっています。それだけではありません。14節以下は、自分の意思と責任で神から離反した結果はかない存在となってしまった人間に、神が寄せる激しく血がたぎるような、燃えるような強い愛情の表現でもあります。子供の弱さ、はかなさ、罪深さを知る親が格別の愛情を子供に注ぐ如く、御自身の一人子をイエスをこの世に遣わし、私たちを尋ね求めて捜しだし、罪を赦し、滅びから救い出すお方こそ「あわれみ」の神です。

4.主のいつくしみと義とは、とこしえにここでもう一度8-9節に目を向けましょう。 
 103:8 主はあわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。 
 103:9 主は常に責めることをせず、また、とこしえに怒りをいだかれない。

この8-9節からは、神は正当な怒りを抑制し忍耐しておられることが伝わって来ます。他方、出エジプトの道中の出来事、エレミヤ書と哀歌に記されたバビロン捕囚、エルサレム滅亡といった目を覆いたくなる悲惨な出来事は、神の裁きであることが聖書に明記されています。つまり、神の忍耐にも限度というものがあり、赦しは絶対的でも無条件的でもないのです。聖書がハッキリ説くところによれば、
(1)主は忍耐強く、あわれみに富み愛情深く誠実なお方ですが、「おのれの道をモーセに知らせ、おのれのしわざをイスラエルの人々に知らせられた」(7節)神は決して罪と妥協せず、「正義と公正とを行われる」(6節)お方です。
(2)神の怒りは決して神の気まぐれではありません。「正義と公正」こそ神の御性質です。神の怒りを惹き起こすのも、怒りを思いとどまらせるのも罪人次第です。神の怒りは「主はおのれを恐れる者をあわれむ」ためであるとの明確な意図が17節以下に記されています。
 103:17 しかし主のいつくしみは、とこしえからとこしえまで、主を恐れる者の上にあり、その義は子らの子に及び、 
 103:18 その契約を守り、その命令を心にとめて行う者にまで及ぶ。 
 103:19 主はその玉座を天に堅くすえられ、そのまつりごとはすべての物を統べ治める。

悔い改めて主を怖れる人々に祝福を与えることです。ですから、神から召命を受けた預言者たちは自分の命を賭してまでして、神の言葉を、神御自身を語り続けることが出来たのです。

むすび
聖書の言葉は、私たちの弱さを全てご存じのうえで、私たちを永久に変わらず慈しんで下さる方の言葉です。この世の混迷がどんなに深まろうとも、神のみ声を聞いて神の元に来る人は高らかに歌います。 
 103:1 わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。 
 103:2 わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。


 

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