今日の聖書箇所は、「新しい歌を主にむかって歌おう」との呼びかけと、その招きへの応答が記されています。
新しい年を迎えるに相応しい御言葉です
讃美歌には不思議な魅力があります。すでに聞き慣れ、これまでなにげなく歌ってきた讃美歌が、突然これ迄とはまったく違った感動がこみ上げてきて歌わずにおられなくなることがあります。この思いこそ「新しい歌を歌おう!」です。
1.讃美への招き、呼びかけ (1-3節 )
詩篇33:1 正しき者よ、主によって喜べ、さんびは直き者にふさわしい。
主の御前に正しい人は主を喜ぼう、主の目に直き人に讃美はふさわしい! と神は私たちを招いておられます。
ところで、「ふさわしい」と訳されたヘブル語は、ある特別な美しさを表現する言葉です。
雅歌2:14 岩の裂け目、がけの隠れ場におるわがはとよ、あなたの顔を見せなさい。あなたの声を聞かせなさい。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。
ここでは、愛された者の美しさが歌われています。人から愛される喜びはその人の顔を輝かせます。その顔は、愛される人に相応しく自ずと美しくなるのです。
これと同様に詩篇33:1は、神に愛された喜びが主を誉め讃える新しい歌となって歌われることは、その人に相応しく美しいことだ、と言っているのです。「新しい歌」を歌うとは、神に愛された喜びを歌う事です。
続いて2節、
33:2-3 琴をもって主をさんびせよ、十弦の立琴をもって主をほめたたえよ。/新しい歌を主にむかって歌い、喜びの声をあげて巧みに琴をかきならせ。
私たちは新年を迎えるにあたって「心新たにして」とか言いますが、この詩篇が言う「新しさ」とは、自分の心持ちを新たにして歌うこととは違います。もちろん新しく作曲された曲を歌うことでもありません。讃美は古い歌でもいっこうにかまいません。
「新しい歌を歌う」とは、過去の喜びをではなく、今体験したばかりの、新鮮な神の恵みを讃美することです。
詩篇33:1-3節は、いわば「おーい、今年も神は日々新たに恵みを与えて下さる。それを味わい知る毎、主を讃美しようじゃないか!」と私たちに呼びかけているわけです。
2.讃美への招き、呼びかけへの応答 ( 20-22節 )
続く4-19節に、讃美の対象となる神がどんなに素晴らしいお方であるかが記されていますが、今日は割愛して20-22節へと進みます。
ここは、新しい歌をもって主をほめたたえよう!との招きに対して、「わかりました。私たちは主を待ち望みます!」との応答です。
33:20 われらの魂は主を待ち望む。主はわれらの助け、われらの盾である。
ここの「助け」と訳されたヘブル語は神に使われています。ですから、詩篇記者は人間的な助けではなく、救い主による助けを全面的に信頼して待ち望んでいるとの信仰を告白しています。
自分の力、自分の知恵にたよろうとする者を神は喜ばれず、神を恐れ、神のいつくしみをひたすらに望む者をよみせられるからです。そして、
33:21-22 われらは主の聖なるみ名に信頼するがゆえに、われらの心は主にあって喜ぶ。/主よ、われらが待ち望むように、あなたのいつくしみをわれらの上にたれてください。
「いつくしみをたれてください」(33:22)と翻訳された元のヘブル語は「へセド」という一つの単語で、「人間の命に無関心ではいられない神の恵み深い力を発揮する」という意味があります。
この「いつくしみをたれて下さることを私たちは待ち望んでいます」も、詩篇冒頭の讃美への招きに対する応答です。この「主を待ち望む者はさいわい」を、預言者イザヤはこう記しています。
イザヤ30:18 それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである。
3.詩篇の祈りに、主イエスは答えて下さった。
ところで、詩篇33篇は過去の歌ではありません。今も変わらぬ信仰の世界の現実を歌っています。神は救い主イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、詩篇33篇が不変の真理であることを明らかにしておられます。
ルカ17:11-13 イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。/そして、ある村にはいられると、十人の重い皮膚病人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、/声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。
病人たちが叫んだ「あわれんでください」は、先ほどの「へセド」と同じ意味を持つ言葉です。ですから病人たちが「あわれんでください」とイエスに向かって大声を張り上げた時、人間イエスに同情を求めたのではなく、「神よ、苦しむ私たちを見て無関心ではおれないでしょう、あなたの恵みで力をふるって下さい」と訴えたのです。
人間はどんなに同情しても、事態を変える力には限界があります。しかし、神は御心一つで万事可能です。すると、
17:14-17 イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。/そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、/イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。/イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。
ほめたたえながら帰ってきた人は、自分が「きよめられた」だけではなく「いやされた」ことも知りました。しかし他の九人は「「きよめられた」ことは知ったが「いやされた」ことは知らなかった。このことから、「きよめ」と「いやし」には大きな違いがあることが判ります。ここでの「きよめ」とは、旧約律法上汚れているとされる病気を治すことです。
「いやし」には、文字通り病を治すこと以上に意味があることが解る聖書箇所があります。
Ⅰペテロ2:24 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。
「いやし」には罪からの解放、「救い」の意味があります。イエスのもとに戻らなかった九人は、隔離された生活に終止符が打たれ、社会復帰できることを喜びはしたものの、神への告白につながらない感謝で終わった、イエスへの信仰は持てず仕舞いだったのです。九人は、病の治癒の背後で働かれた神には気付かず、神との交わりに入れなかったのです。
聖書が説く救いは、確かに困難や苦悩からの解放で始まります。しかし、イエスが「他の九人はどこにいるのか」と問うたのは、「九人は救いへの戸口に立ったままで、神との交わりには入ってきていないではないか」、と言われたのです。神は、困難や苦悩からの解放を通して御自身との交わりに入って来てくれることを望まれるのです。そして、神との交わりを喜ぶ人の姿こそ神の目に「うつくしい」(雅歌2:14)のです。
自分の苦悩に無関心ではいられず、憐れみの指を働かせた方が誰だか知った。その新鮮な喜びを、大声で讃美し神を誉め讃えながら、「新しい歌」を歌いながら戻って来た。それが「いやし」を受けた彼にとって最も相応しく美しい姿だったのです。
この事を主イエスは言われました。
17:19 …「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。
「新しい歌」が歌われるところには、必ず神の救いの出来事があります。神の救いと慈しみをしっかり体験し、心からの讃美ができる時、その人は幸せです。神の眼に「うつくしい」のです。
4.私たちも「新しい歌を歌おう」
主なる神は、今、私たちを招いて呼ばわっておられます。
33:1, 3 正しき者よ、主によって喜べ、さんびは直き者にふさわしい。/新しい歌を主にむかって歌い、喜びの声をあげて巧みに琴をかきならせ。
私たちも、応えましょう、
33:22 主よ、われらが待ち望むように、あなたのいつくしみをわれらの上にたれてください。
御言葉に聞き祈り、主の交わり礼拝に与りつつ、神がいつくしみを私たちの上にたれてくださることを待ち望みましょう。今年も、主なる神が私たちに、新しい喜びと感謝に満ちあふれた讃美、新しい歌を歌わせて下さります。
■この日の信仰告白
交読文33
■この日の讃美歌
79番「ほめたたえよ つくりぬしを」
265番「世びとの友となりて」
524番「イエス君、イエス君、みすくいに」
