新型コロナウイルス禍という災禍によって全世界が激しく篩(ふる)われ、人間のあらゆる営みの“真価”が試されると共に、平素は気付かれなかった人の心が具体的に見えるようになってきています。もちろん私たちキリスト者の信仰も試みられています。しかし、この時こそ真の悔い改めに与り、「主は我らの助け、また盾」であることを再確認し、コロナ禍との霊的な戦いに与って「主に栄光を帰する」チャンスではないでしょうか。
1.おさらい
今日は、12~18節より、お話ししますが、その前に前回までをかいつまんでお話しします。
(1)詩篇記者の執り成しの祈り (1節)
詩篇記者は、激動の時代を生き抜く中で、神のまことを体験してきたようです。今また新たな試煉の真っ只中にあって、自分と同胞ばかりか、すべて神を恐れる人々を執り成しています。
115:1 主よ、栄光を/われらにではなく、われらにではなく、あなたのいつくしみと、まこととのゆえに、ただ、み名にのみ帰してください。
「この試煉を乗り越えた時『主なる神、あなたのおかげです』と誉め讃えさせて下さい」との祈りです。
(2)神に栄光を帰する詩篇記者 (2-3節)
いつの時代も社会に不安が生じると、主イエスへの信仰を鮮明にする人々や私たちが信じる神が、しばしば嘲られます。しかし詩篇記者は萎縮すること無く凜としてこう言い切っています。
115:2 なにゆえ、もろもろの国民は言うのでしょう、「彼らの神はどこにいるのか」と。
115:3 われらの神は天にいらせられる。神はみこころにかなうすべての事を行われる。
「神の御心と御業が人間の思いを遙かに超えること、天と地が掛け離れている如くだ。それ故、我らが窮地に立っているのは、我らの考え及ばぬ神の目的があってのことだ」と言って、神に栄光を帰しています。「艱難汝を珠にす」という故事がありますが、艱難には神の意図があることを聖書は明言しています。
Ⅰコリント10:13 あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。
この様な御言葉の裏付けがあるからこそ、私たちは艱難にあっても神を信頼し希望を持ち続けられます。
(3)主に信頼せよ、主は私たちの助けであり盾である (4-11節)
4節から8節で詩篇記者は、私たちが偶像の空しさに気づき、真の神に思いを馳せることが出来るようにと、諭します。そして、偶像を作り出す人々もそれに信頼する人々も、偶像同様いのちを持たない“死んだ存在”になってしまうと教えています。
ここで神の教え方を弁えることは非常に大切です。神はいつの時代も、その時代の人々が“いのちの拠り所とするモノ”と御自身とを対比させながら、神は地上のいのちを超えた永遠の命を与えようとしておられることを教えておられることです。主イエスは繰り返し言われました。「聞く耳のある者は聞くがよい」と、御言葉を聞いて悟れ、現実を霊的に洞察しなさいと。“偶像”についても全く同様で、古代人だけのモノではありません。
2.信頼に応えて下さる神 (12-15節)
さて、今日の本題の一つ目、12, 13節です。ここでは9~11節と同様、三通りの誉れある呼称を私たちに用いて、主はあなた方を恵まれる、と言っています。
(1)私たちを恵まれる神
115:12-13 主はわれらをみこころにとめられた。主はわれらを恵み、イスラエルの家を恵み、アロンの家を恵み、/また、小さい者も、大いなる者も、主を恐れる者を恵まれる。
神は、この世での評価が如何様な人でも主を恐れる人を分け隔て無く祝福して下さいます。何度もお話ししたことですが、旧約時代の「イスラエルの家」はアブラハムの血族と理解されました。しかし主イエスは、「まことのイスラエルの家の者とは、①主イエスへの信仰によって、②神がアブラハムと交わした契約に入れられ救われ、③国籍を天に持つ神の民とされた人のこと」と教えて下さっています。
(2)イスラエルの家を恵む神
ところで、皆さまは「イスラエル」と言う名の由来をご存じでしょうか。聖書では名前がその人の「人となり」、本性を表すことがよくあります。創世記に登場するヤコブもその一人で、彼の名ヤコブは「押しのける者」です。聖書に記された彼の生き様は、名前の通り、自我の塊でした。ところで、創世記32章22節(旧約45頁)以下に、「ヤボクの渡し」での出来事が記されています。その場所で彼は、神が遣わした「ある人」と格闘したのです。その格闘の結果、
創世記32:28 その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。
とあります。しかし事実は、ヤコブはもものつがいをはずされて敗北したのです。「負かされた」のです。ヤコブが神の恵みにあずかるためには、神に打たれる必要がありました。ヤコブは自分のもものつがいをはずされ負けた時、彼は必死になって祝福を求め、そして「イスラエル」(神と戦う、の意)と言う新しい名を与えられました。つまりイスラエルと言う名は、神と取っ組み合いをして「負かされ」祝福を与えられた人を現します。私たちキリスト者も同様に“神に負かされ”、悔い改めて神の御前に謙り、神を恐れる「イスラエル」です。神は、主を恐れる者を恵まれるのです。ここで考えてみて下さい、私たちが本当に信頼して恵みを期待できるのは、取っ組み合いをしたら私たちが勝てる相手ではなく、私たちを負かし、まことの悔い改めへ導き得る相手ではないでしょうか。
(3)主を恐れる者を増し加える神
115:14-15 どうか、主があなたがたを増し加え、あなたがたと、あなたがたの子孫とを/増し加えられるように。/天地を造られた主によって/あなたがたが恵まれるように。
とありますように、旧約時代の祝福の基本は、イスラエル民族の子々孫々に及ぶ繁栄でした。しかし今や主イエスが霊的なイスラエルについて教えて下さったので、14-15節の御言葉は[主を恐れる子孫、すなわちまことの礼拝者を増して下さるとの祝福だ!]と判ります。ですから私たちは安んじて神に信頼できるのです。“偶像”の誘惑と“神への嘲り”で溢れるこの世のただ中にあって、私たちが生きるために頼るべき力は、約束の力です。その祝福によって私たちは生きるのです。
115:16 天は主の天である。しかし地は人の子らに与えられた。
この16節は難解ですが、預言者イザヤはこう言い現しています。
イザヤ45:18 天を創造された主、すなわち神であって また地をも造り成し、これを堅くし、いたずらにこれを創造されず、これを人のすみかに造られた主はこう言われる、「わたしは主である、わたしのほかに神はない。
3.まことのいのちに生かされると言うこと (17-18節)
今日二番目のポイントですが、非常に厳しい言葉です。
115:17 死んだ者も、音なき所に下る者も、主をほめたたえることはない。
一般に旧約聖書は、死後の世界について極めて悲観的に語ります。ここでも死者には神を讃美する事もなく、復活する希望もないかの如くです。しかし、ここで描写されているのは、8節に記された「偶像を造る者と、偶像に信頼する者とはみな、偶像と等しい者」になってしまった人々の死後の世界です。ですからこの世で、“偶像”を造り“偶像”に信頼し続ける人々は、今は栄えて生きているようでも、肉体の死後土に帰って神を賛美できない死人と変わりないのです。だからこそ、その様な罪人を救うために、神は御子イエスをこの世に遣わして下さりました。一方18節では、9~11節の「主に信頼せよ。主は彼らの助け、また彼らの盾である」との呼びかけに答えた人々を祝福してこう言っています。
115:18 …今より、とこしえに至るまで、主をほめまつるであろう。主をほめたたえよ。
私たちのよみがえりと永遠の命の希望が、この詩篇の中で燦然と輝いているのです。
むすび
詩篇115篇の冒頭、詩篇記者はこう執り成して祈っていました。
115:1 主よ、栄光を/われらにではなく、われらにではなく、あなたのいつくしみと、まこととのゆえに、ただ、み名にのみ帰してください。
この詩篇記者の祈りにこだまするように、主イエスの祈りが聞こえてきませんか。この祈りです。
ヨハネ17:1-4 これらのことを語り終えると、イエスは天を見あげて言われた、「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい。/あなたは、子に賜わったすべての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから。/永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。/わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました。
詩篇115篇の御言葉は、主イエス・キリストの十字架とよみがえりを経て歴史上の出来事になっています。私たちが主イエスへの信仰により罪を赦されていること、よみがえりの命を与えられていること、これ全て神の栄光の現れです。18節、
115:18 …われらは今より、とこしえに至るまで、主をほめまつるであろう。主をほめたたえよ。
と呼びかけられた私たちは、こう答えます。「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです 」と。(ウエストミンスター小教理問答 問1)