「罪を赦される者はさいわい(1)」

「罪を赦される者はさいわい(1)」

ダビデのマスキールの歌
32:1 そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。
32:2 主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。
32:3 わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。
32:4 あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。〔セラ
32:5 わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ
32:6 このゆえに、すべて神を敬う者はあなたに祈る。大水の押し寄せる悩みの時にも/その身に及ぶことはない。
32:7 あなたはわたしの隠れ場であって、わたしを守って悩みを免れさせ、救をもってわたしを囲まれる。〔セラ
32:8 わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。
32:9 あなたはさとりのない馬のようであってはならない。また騾馬のようであってはならない。彼らはくつわ、たづなをもっておさえられなければ、あなたに従わないであろう。
32:10 悪しき者は悲しみが多い。しかし主に信頼する者はいつくしみで囲まれる。
32:11 正しき者よ、主によって喜び楽しめ、すべて心の直き者よ、喜びの声を高くあげよ。
日本聖書協会『口語訳聖書』詩編 32篇1-11節

人は誰もが幸せを願っています。しかし、どのような状態が幸せかは千差万別でしょう。同じ状況にあっても、ある人は幸いと、ある人は不幸と感じることもあります。
では、聖書は、人の幸いはどこにあると教えているのでしょうか。
主イエスは山上の説教等で教えて下さいましたが、旧約聖書では43回「さいわいである」と教えています。詩篇では26回記され、その最初の箇所が詩篇一篇です。そして二番目がこの32篇で、「さいわい」がどの様にして与えられるかを教えています。
 32:1 そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。
 32:2 主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。

「さいわい」は、神が罪を赦して下さることによると讃美されています。その喜びを深く味わうために三度も使われている言葉が「セラ」です。「セラ」は音符の一つ、休止符の様な働きをします。つまり、「ここで小休止して、神の愛を静かに瞑想しなさい」との読者への配慮です。
受難週が始まり次週イースター礼拝を迎える今日は、全き救いの前触れであり、詩篇の中でもとりわけて福音的なこの詩篇32篇から御言葉に聞きましょう。


1.詩篇32篇の「背景」と中心的メッセージ
まず、詩篇の標題ですが、
 ダビデのマスキールの歌と

あることから、この詩篇記者はダビデで、バテシバとの事件が背景にあるようです。詩篇51篇(2019/11/29説教)に記された深刻な悔い改めの後、祝福に満ちた平安が与えられ、魂を注ぎ出すように導かれてこの詩篇32篇が記されたことでしょう。また、「マスキール」(教訓)とあることから、この詩篇は、悔い改めを実践してさいわいな者とされるようにと、私たちを招いていることが判ります。この詩篇は、悔い改めの祈りそのものでも、悔い改めについて教えるものでもありません。詩人は、罪をひた隠しにしていた時の苦痛と、罪を悔いた者に与えられる赦しの恵みを回顧しつつ、自身の経験を踏まえて信仰者に対する教訓を詩篇にしたためたのです。ところで、1節に進む前に「悔い改め」について確認しておきましょう。
使徒パウロが、この詩篇の1-2節を引用して、悔い改めの本質を明らかにしています。
 ローマ4:6-8 ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、/「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。/罪を主に認められない人は、さいわいである」。

このように、さいわいに至る「悔い改め」とは、「悔い改め」という行為そのもののことではなく、罪を赦して下さる神・救い主への信頼、信仰だと判ります。救い主イエス・キリストは言われました。
 ルカ5:32 わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。


2.悔い改めて罪を赦された者への祝福
 32:1 そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。
 32:2 主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。

なぜ「さいわい」なのか。人間にはどうにもならぬ苦悩(3-4節)から解放された(5節)からです。 
 32:3 わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。 
 32:4 あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。〔セラ

「言いあらわさなかった」とあるように、バテシバが妊娠したと知ったダビデは、まずいことになったと、直ちに自分の関与を隠そうとした。なぜまずいかと言えば、公になったら面目丸潰れになってしまうからです。罪を隠して自己保身を図り、自分の人生を自分の手で確かにしようとすること、これが罪人の姿です。
しかし、まともな人間なら、自分の行いの善し悪しを程度の差こそあれ気づいています。良心を海の底深く埋めるようにして黙らせても、全てをご存じの神の御手が、昼も夜も寝ても覚めても重くのしかかるのです。神の御手は、強力な助けになりますが、重くのしかかってくることもあるのです。


3.自分の罪を言いあらわした時、神は気前よく赦して下さった
(1)ダビデは、こう告白しています。
 32:5 わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ

ところで、ダビデが罪を告白すると、神はあっけなく彼の罪を赦してます。人間的には、この気前よさは理解しがたいです。確かに、義なる神は罪には決して妥協されませんが、神の一人子イエスを十字架につけてまで私たちの罪を贖い赦して下さる程、神の愛のスケールはとてつもないのです。また、放蕩息子の譬えを見れば判るように、神は悔い改めた者には慈しみ深いのです。罪を隠していても赦せと要求するのは虫がよすぎますが、罪を神の御前に告白するなら、罪の赦しが直ちに現実となる、それほどに気前よく赦して下さる神です。

 ローマ10:9-10 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。/なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。

このことを聞くと、昔のテレビでやってた「あの『ひょうきん家族』でやってた懺悔みたいにすりゃあ良いんだ」と思う人が出てきそうですが、それは大変な思い違いです。

(2)国語辞典で「悔い改め」を引くと、「以前に悪かった点を反省して、改めること。後悔。」とあり、違いが不明瞭です。実は、日本語の悔い改めには神を登場させず「悪かった点を反省し、改める」という人間の努力が強調されているからです。しかし、人間の努力には限界がありますから、改めきれずに後悔で終わることも起きてきます。
あの、イスカリオテのユダは、イエスに死刑の判決が下ったのを知って「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」と言いましたが、これは悔い改めではありません。

(3)聖書の「悔い改め」は、後悔や懺悔とは全く異なります。さいわいをもたらす真の悔い改めとは、「神は、自分の罪を告白する者を赦して下さるお方だ」との信頼にまず立ったうえで「心に秘めている事柄を包み隠さず打ち明ける」ことです。ユダが悔い改めを出来なかったのは、罪を赦す神を信じられなかったからです。そして、ユダは良心の呵責に耐えきれず自殺してしまいました。このことが端的に示すように、真の悔い改めは、罪を赦す神への信頼から始まります。


4.悔い改めは、信仰による義認となる
もう少し、悔い改めは信仰告白であることを、聖書から確認しましょう。
(1)ダビデは5節で、「わたしは自分の罪をあなたに知らせ」と言ってますが、神は罪を赦して下さるお方であることと、神は義であり愛なお方であることとを信頼していたからこそできたことです。このような信頼、信仰が無かったら、そもそも得体の知れない相手に、自分の汚点・恥部を曝したりしません。それで、ダビデは御言葉に聴従し、自分の謀(はかりごと)で自己保身していたことを悔い改め、自分の立場を確かにすることを神に委ねたのです。その時、罪赦されたダビデからは1-2節の讃美が湧き出てきたのです。

(2)もうひとつ、アブラハムのケースを思い返しましょう。
 ヘブル11:8 信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。

アブラハムは、しようと思えば自分の力で自分の人生を確かなモノに出来たことでしょう。しかし、御言葉を聞いた彼は、「行く先を知らない」ままで、主の約束の言葉の“中に”自分を置いて自分を確かにすることを選択しました。自分の人生を自助努力では無く神に委ねるという、一種の賭けとも言える決断をしたのです。
この信仰によって、アブラハムが義と認められたことが次の聖句に記されています。
 ローマ4:2-3 もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。/なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。

今日の詩篇に戻りますと、ダビデは、もし罪を告白したら王としての面目がどうなるか判らぬまま、はかりごとを止め悔い改めを迫る神に委ねたのです。その結果、
 32:1 そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。

なんと、「罪がおおい消され」たのです。神がダビデの生涯を守って下さったのです。ですから、悔い改めは、信仰によって義とされ、神からさいわいを与えもたらします。


結び
神は、私たちを「さいわいな者」としたいと願っておられます。
私たちは十分知っています、全き罪の赦しは、イエス・キリストの十字架上での贖いによることを。
 32:8 わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。

神は、御子イエス・キリストを私たちの元に遣わすことで、この約束を果たして下さいました。福音書に記された通りです。今週は受難週です。この時こそ、じっくり御言葉に聞き、冒頭お話しした「セラ」の言葉の如く、しばし立ち止まって静かに黙想してみませんか。
私たちは毎日何だかんだと忙しくしてます。油断すると、聖書を開くのは教会に来た時だけに、祈っていると言っても、食前・就寝前の形ばかりの祈りだけになってしまいます。これでは、私たちの「さいわい」の為に十字架に掛かって苦しみ血を流して下さった主イエスに申し訳ないです。
 32:1 そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。
 32:2 主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。

私たちも、このさいわいをいただいて感謝にあふれ、次週イースター礼拝に共に集いたいものです。

■この日の讃美歌・信仰告白
11番「あめつちにまさる かみの御名を」 
511番「みゆるしあらずば ほろぶべきこの身」
使徒信条

 

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