1.奏楽
2.主の祈り
3.讃美歌 268番1,3節 「まごころもて 仰ぎまつらん」
4.牧会祈祷
5.聖書朗読 詩篇115篇1~11節
6.説教 「主は我らの助け、また盾(2)」
7.讃美歌 382番1,3節 「いざやともに いさみすすめ」 ※当教会では初出
8.祝祷
9.後奏
1.前回のおさらい
(1)栄光を、主に帰させて下さい!
115:1 主よ、栄光を/われらにではなく、われらにではなく、あなたのいつくしみと、まこととのゆえに、ただ、み名にのみ帰してください。
「主に栄光を帰する」とは、「この栄誉は私たちの主のおかげです」と神がどういうお方か言い表すことです。幾度も試煉・戦いを経験した詩篇記者は、今また新たな試煉の真っ只中にあって主に訴えています。「私たちは今また艱難辛苦に喘いでいますが、これを乗り越え勝利する時も『私たちの主なる神、あなたのおかげです』と誉め讃えさせて下さい」と。
(2)社会が動揺するとき、信仰に立てば嘲られる
いつの時代も社会に不安が生じると、私たちが信じる聖書の神と、主イエスへの信仰を鮮明にする人々が嘲られるのはしばしばです。しかし詩篇記者は萎縮すること無くこう言い切っています。
115:2 なにゆえ、もろもろの国民は言うのでしょう、「彼らの神はどこにいるのか」と。
こうした事例を聖書に求めれば枚挙にいとまがありませんが、特に印象的な出来事を二つお話しします。
1)歴史上類い希な残忍さで恐れられたアッスリヤがエルサレムを包囲して、己の戦果を誇示して嘲りました。
列王下19:10-12 「…あなたの信頼する神に欺かれてはならない。あなたはアッスリヤの王たちがもろもろの国々にした事、彼らを全く滅ぼした事を聞いている。…その国々の神々は彼らを救ったか。
しかし国王ヒゼキヤの信仰は挫かれず国は守られ、アッスリヤが滅亡の坂道を転げ落ちて行きました。
2)神の御子イエス・キリストですら十字架上で嘲られました。
マタイ 27:4 …いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。
しかし、救いの御業を全うした御子イエスはよみがえらされ、神の栄光の座に就いておられます。
(3)試煉ですら神の御手の業である
115:3 われらの神は天にいらせられる。神はみこころにかなうすべての事を行われる。
この3節は、「神の御心と御業が人間の思いを遙かに超えること、天と地が掛け離れている如くである。私たちが窮地に追いやられているのは、敵が強いからでは無く、神の目的があってのことだ」と言い切って、神に栄光を帰しています。故事に「艱難汝を珠にす」というのがありますが、聖書は艱難に込められた神の意図をこう言っています。
Ⅰペテロ1:7 こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。
また、
Ⅰコリント10:13 あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。
私たちは、艱難に遭っても御言葉に信頼できるので、神に栄光を帰していけます。
2.私たちの神は、生きて働かれる
さて、4節から7節ですが、「擬人化」という表現手法を用いて、私たち読者の心を真の神に向けさせます。
4節、「偶像は…人の手のわざ」! 真逆で、私たち人間が創造主なる神の御手のわざだ!
5節、「口があっても語ることができない」?! 先週の説教通り、私たちの神は「語る神」だ!
イザヤ 55:10-11 天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。/ このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。
5節、「目があっても見ることができない」?! 私たちの神は、
詩篇33:13-15 主は天から見おろされ、すべての人の子らを見、/そのおられる所から/地に住むすべての人をながめられる。/主はすべて彼らの心を造り、そのすべてのわざに心をとめられる。
6節、「耳があっても聞くことができない」?! 私たちの神は、讃美と祈りに耳を傾けて聞いて下さる。
6節、「鼻があってもかぐことができない」?! 真の神は、この様なかおりをかがれるお方だ!
ピリピ4:18 わたしは…あなたがたの贈り物をいただいて、飽き足りている。それは、かんばしいかおりであり、神の喜んで受けて下さる供え物である。
7節、「手があっても取ることができない」?! 神は最後の晩餐の席上、手ずから聖餐式を制定して下さった!
マタイ 26:26-28 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた…/また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。/これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。
7節、「足があっても歩くことができない」?! 主イエスは、失われた羊を探す羊飼いの様に、救いを求める “貧しい”罪人たちを捜し求めて訪れて下さった如く、私をも尋ねて下さった!
7節の「のどから声を出すこともできない」とは、偶像が「語れない」どころか、獣の様な唸り声すら出せないことを言っています。
3.私たち現代人の偶像
115:8 これを造る者と、これに信頼する者とはみな、これと等しい者になる。
ここで私たちが注意すべきことがあります。聖書は、“その時代の人々がいのちの拠り所としたモノ”と対比させながら、主こそ生きて働かれる真の神であることを論証していることです。そのうえで「いのちがないモノに信頼せず、“医学的な命”以上のいのちを与えて下さるお方に信頼しなさい」と勧めています。ですから、詳しい話しは別の機会にしますが、医学的な生命以上の「いのち」をもたらせない物事や人間への過度な依存、拝金主義に代表されるあくなき欲望追求や、不義・不品行、情欲に溺れることも“偶像に仕える”ことです。そこに留まり続けるとき、旧約時代の偶像に信頼した人々同様となってしまいます。
4.まことの神に信頼せよ
9節から11節では、「イスラエルよ」、「アロンの家よ」、「主を恐れる者よ」と、三通りの呼び名で私たちに呼びかけています。
115:9 イスラエルよ、主に信頼せよ。主は彼らの助け、また彼らの盾である。
115:10 アロンの家よ、主に信頼せよ。主は彼らの助け、また彼らの盾である。
115:11 主を恐れる者よ、主に信頼せよ。主は彼らの助け、また彼らの盾である。
(1)「イスラエル」とは、旧約時代はアブラハムとの血縁関係にある人々を指しました。しかし主イエスは、「イスラエル」とは神の御子イエス・キリストへの信仰によって救いの契約に与った人々だと教えて下さいました。
(2)「アロンの家」とは、祭司の務めに与る人々のことです。エルサレム神殿無き後も、神に仕え、御言葉を正しく携え、人々に神の御心を伝え、彼らが神の祝福に与れる様に働く人々が「アロンの家」の人です。
(3)「主を恐れる者たち」、神の御前に謙る人々です。
このような名誉ある三通りの呼び名をもって、あなたは「主に信頼せよ。主は彼らの助け、また彼らの盾である」と三度も繰り返されます。よみがえりの主がペテロに三度問いかけた如く、聖書はこう語ります。
・「主に信頼せよ」
ローマ10:11 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。
・「主は彼ら(主に信頼する人々)の助け」
ヨハネ14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
・「主は彼ら(主に信頼する人々)の盾」
エペソ6:16 その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。
このように聖書は「あなたは、目の前の現実をいたずらに恐れるな。その先のことも思い煩うな。今は、まず、神に信頼して、己の為すべきことに励みなさい!主である私が守る」と私たちを励ましているのです。
結び
昨今のコロナ禍を克服すべく、命懸けの最前線で、また“兵站※(へいたん)”の任務に、孤立無援の方々の支援にと、大勢の方々が想像を絶する忍苦をもって働いておられます。そして私たちキリスト者は、この戦いに於ける霊的で一人ひとりの魂に関わる事柄、私たち信仰者ならではの任務へと招かれています。主は「イスラエルよ、アロンの家よ、主を恐れる者よ」との誉れ高い名でもって私たちを呼ばわっています。しかし、そのような栄えある任務であっても、時には嘲られ落胆もします。信仰の真価が、金が精錬される如く試みられます。主はその事もご存じです。だからこそ「主に信頼せよ。主は彼らの助け、また彼らの盾である」と励まして下さっているのです。私たちが「勝利できたのは、あなたのおかげです」と主に栄光を帰せられる日は近いです。
※「兵站」 軍隊組織が戦闘能力を維持するために必要な雑務の総称。戦場の後方にあって、作戦に必要な物資の補給や整備・連絡などにあたる。実際に戦闘を行う部隊よりもはるかに巨大な部門で、現代では総兵員数の9割以上を占めるほどである。