「主がもしおられずば」

「主がもしおられずば」

ダビデがよんだ都もうでの歌
124:1 今、イスラエルは言え、主がもしわれらの方におられなかったならば、
124:2 人々がわれらに逆らって立ちあがったとき、主がもしわれらの方におられなかったならば、
124:3 彼らの怒りがわれらにむかって燃えたったとき、彼らはわれらを生きているままで、のんだであろう。
124:4 また大水はわれらを押し流し、激流はわれらの上を越え、
124:5 さか巻く水はわれらの上を越えたであろう。
124:6 主はほむべきかな。主はわれらをえじきとして/彼らの歯にわたされなかった。
124:7 われらは野鳥を捕えるわなをのがれる/鳥のようにのがれた。わなは破れてわれらはのがれた。
124:8 われらの助けは天地を造られた主のみ名にある。
日本聖書協会『口語訳聖書』詩編 124篇1~8節

1.概説
この詩篇124篇には、疑い迷いの雲を突き抜けて天に届くような信仰が活き活きと記されています。
1-2節で詩篇記者は、旧約時代の民族としてのイスラエルのみならず、新約の時代にイエス・キリストへの信仰により救われた私たち一人ひとりにも呼びかけています。  
 124:1 今、イスラエルは言え、主がもしわれらの方(かた)におられなかったならば、

1-2節の呼びかけは、「私たちはあまたの危機に遭遇してきたが滅び去ることなく救い出された。今の自分たちがあるのは、神が私たちに味方して下さったからだ」との神讃美への招きです。
続く3~7節では「危機からの救い」が回顧され、8節の信仰告白でこの詩篇は結ばれます。

2.神がおられるなら、なぜ?!
さて、3-5節ですが、神の御業を強調する詩的な表現手法が用いられています。過去の出来事を回顧しながら、自分たちは守られて今あるを得ている幸いを強く印象付けます。 
 124:3 彼らの怒りがわれらにむかって燃えたったとき、彼らはわれらを生きているままで、のんだであろう。

この3節は、出エジプト記15章に記されたモーセとイスラエルの民が歌った讃美を想起させます。  124:4 また大水はわれらを押し流し、激流はわれらの上を越え、  124:5 さか巻く水はわれらの上を越えたであろう。ですから、3節5節は、「しかし主がわれらの方(かた)におられたのでわれらは守られた」との信仰告白へと繋がって行くのです。しかし私が今回の説教準備を進める途中、ハット気付きました。3-5節の強調的表現は東日本大震災の津波の惨状を思い出させることを。「なぜ、この御言葉が与えられたのだろうか」といぶかりました。しかも4節の「押し流す」は、他のところでこういう使い方がされている言葉です。 
 ヨブ14:19 水は石をうがち、大水は地のちりを洗い去る。このようにあなたは人の望みを断たれる。

津波が防波堤を越え、罪無き人々を生きているまま故郷の町ごと吞み込み何もかも押し流した、人々の望みを絶ったあの出来事を3-5節は思い出させるのです。キリスト教において厄介な問題は、他の宗教も同様ですが、「神が愛であるのなら、なぜ人類の歴史で悲惨な災禍が繰り返されるのか」の疑念と、「聖書が言うことは現実離れしている!」との躓きがしばしば起きることです。
私自身悩みながら調べるうちに、JWTCから公開されている『キリスト者は東日本大震災をどう考えたらよいのか』との講演集を見つけました。一部抜粋してお読みします。 

 「津波の被害の大きさに対して抱いたあの『なぜ』という問いに対する答えのない喪失感である。ボランティア活動ですばらしいことが起こっているのであるが、答えのない問いは残されたままである。問いそのものが問われていないかのようである。問うことさえ避けている感じである。《中略》...(言葉に)出しても答えがないことを知っているからである。特に神を信じて、すべてを益に変えてくださる神を信じている教会の民にとって、どうすることも出来ない喪失感である。なぜ神はそのようなことをこの日本に、あの東北の地にしたのかは、出しても答えのない問いである。ただ意味の欠落のなかに陥ってしまうだけである。」(JWTC『キリスト者は東日本大震災をどう考えたらよいのか』講演集より転借)

ここに書かれているように、信仰には戦いが伴います。「なぜ」との問いを止めて「何の為に」と問うことはとても有益です。ですが、答えを見出して終わらせたいと思うのが人情でしょう。しかし、この『なぜ』という問いに人知をもって答えを出そうとすると、ヨブ記に記されたような、疑いと迷いの底なし沼に嵌まります。では、「なぜ」と言う疑いと迷いを完全に克服するにはどうしたら良いのでしょうか。聖書の御言葉をまともに聞くことです。
震災直後、津波の被災地で惨状を目の当たりにして、“不毛な”議論を避け、主への断固たる信仰告白へと導かれ行動したキリスト者の群れを皆さまご存じでしょうか。その方が信仰告白とした御言葉がこれです。  
 124:8 われらの助けは天地を造られた主のみ名にある。

このことは日本基督教団東日本大震災救援対策本部ニュース第20号に掲載されています。

3.私たちは、神の摂理の内に生かされている今日の聖書詩篇124篇に戻ります。  
 124:1 今、イスラエルは言え、主がもしわれらの方におられなかったならば、との呼びかけに答えて、「神がもしわたしの味方でなかったら」、「主がもしおられずば」どうなっていたか思い巡らしていただきたいのです。必ずや、パウロが記した神の御業、神の摂理に生かされていたことの記憶が鮮やかによみがえってくることでしょう。 
 Ⅰコリント10:13 あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。

これは、私たちが主の祈りで、「我らを試みにあわせず悪より救い出し給え」と祈っていることですね。
神は“悪”を阻止されないかのように思える時もあります。それにもかかわらず、神は“悪”がなしうることの範囲や影響を抑制されます。旧約聖書のヨブ記に記されています。神はサタンの活動を許容されましたが、サタンがなしうることを制限されました。「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」(ヨブ1:12)。また主は言われました。「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」(2:6)。そのヨブは、あまたの試煉を耐え忍んだ後、こう言いました。 
 ヨブ42:2-3 「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。/『無知をもって神の計りごとをおおう この者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。

神の摂理は、試煉を耐え忍んだ人だけが判ることです。たとえ神への信頼の結果が私たちの期待とは異なり、その時は理解出来ずとも後に判る時が来ます。 
 ヨハネ13:7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。

神への信頼が裏切られることはありません。
                                                                                         
4.「われらの助けは天地を造られた主からくる」
詩篇124篇はこう結論づけます。 
 124:8 われらの助けは天地を造られた主のみ名にある。

今日、科学は飛躍的に進歩したと言われますが、私たち人類が天と地について知ることは、一握りの鳥取砂丘の砂の如くです。ましてや天地万物を創造された神についての知識は、コップ一杯の太平洋の海水の如しです。私たちは人知で計り知れぬ事を論じることを止め、謙遜になって聖書にまともに聞くしかありません。これは、疑問をごまかしたり封じ込めることとは違います。ただ、御言葉に信頼することです。
新約聖書には詩篇124篇に漲っている信仰に生きた人々の証言が至る所に記されています。 
 Ⅰヨハネ4:9-10 神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。/わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。
  Ⅰコリント15:19-20 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。/しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。
  ヘブル12:1 こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。

むすび
最後に、もう一度4節、 
 124:4 また大水はわれらを押し流し、激流はわれらの上を越え、

4節には「押し流す」という人の望みを絶ち切るような言葉があります。不義が横行し悲惨が繰り返されるこの世の力は、この大水のようです。ですが、旧約聖書の雅歌はこう歌います。 
 雅歌8:7 愛は大水も消すことができない、洪水もおぼれさせることができない。

「愛」すなわちキリストの真実の愛を、「大水」すなわち罪と死、あらゆる悪の力をもってしても消せないと。神が私たちの味方になって下さったらどうか、パウロも私たちを励まして言います(ローマ8:31-39の要約)。「だれも、敵対することも、訴えることも、罪に定めることもできません。患難も苦しみも、迫害も、飢えも、裸も、キリストの愛から引き離すことはできません。神が味方であるなら、私たちは、私たちを愛してくださる方によって、圧倒的な勝利者となるのです。」

聖書は、私たちに呼ばわります。
 124:1 今、イスラエルは言え、主がもしわれらの方におられなかったならば、

私たちは答えます。  
 124:8 われらの助けは天地を造られた主のみ名にある。

この御言葉に依り頼み証ししながら、神から託された命と使命を全うさせていただきましょう。


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