ペンテコステ礼拝「我が助けはどこから来るか」
都もうでの歌
121:1 わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。
121:2 わが助けは、天と地を造られた主から来る。
121:3 主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。
121:4 見よ、イスラエルを守る者は/まどろむこともなく、眠ることもない。
121:5 主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。
121:6 昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。
121:7 主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。
121:8 主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう。
日本聖書協会『口語訳聖書』詩編 121篇1~8節
1.主題
今日の詩篇の主題は、主なる神への全幅の信頼です。
エルサレム巡礼に旅立とうとしている詩篇記者がいます。遙かにそびえる山々を見て、彼の脳裏を「良きサマリヤ人の譬え」(ルカ10:30以下)で暗示されている“道中の危険”がよぎったことでしょう。しかし彼は歌います、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」と。
すると、見送る家族や友人たちは旅人を励まし祝福して、「主はあなたを守る」と六回も繰り返し歌います。こうして全幅の信頼が歌い交わされています。
今日はまず第一に、私たちも主なる神に全幅の信頼を置くべき事をお話しします。なぜなら、コロナ禍は収束しつつあるように見えます。しかし本当の試煉は今からだからです。コロナ禍で激しく試みられ深い痛手を被った人生と社会の仕組みをどう立て直していくかという試煉です。
そして、第二に、私たちの助けは天と地を造られた主から既に来ていることを新約聖書からお話しします。
2.「全幅の信頼」
121:1 わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。
巡礼者は、もちろん舗装などされてない道を自分の足で歩いて旅をしなければなりません。そして彼の目には、上から押しっぶすように行く手を阻む山々が映っているのでしょう。1節は「私の助けは、どこから来るだろうか」と、現実の不安とおののきを正直に包み隠さず言い表しています。しかし、どんなに険しい山々であっても視線はせいぜい30度あるいは45度上向く程度です。詩篇記者は目を、天と地を、もちろんその山々も造られた主に向けて歌います。
121:2 わが助けは、天と地を造られた主から来る。
この「天地の造り主」は、神への全幅の信頼を言い現すときの「決まり文句」です。万物の起源の信仰表明だけではありません。「万物が神の意思によって造られ保たれている。なれば、そこで起こる一切の出来事も、また神の摂理に依っている」と。この全幅の信頼が「天と地を造られた主」との言葉に込められています。「わが助けは、天と地を造られた主から」きます。だからあれこれと思い煩うことは無いのです。すると旅人を見送る人々も、神への全幅の信頼を歌います。なんと「主が守る」と6回も繰り返されます。
121:3 主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。
121:4 見よ、イスラエルを守る者は/まどろむこともなく、眠ることもない。
旅人が悪路を歩む間も足がよろけないように、主は居眠りなどせず守って下さる、と歌ってます。更にそして、「見よ」との強い言葉を使って、このお方は寝ずの番をして神の民一人ひとりを守っていて下さるのだ、と全幅の信頼を歌っています。
私たちは普段、誰かが自分の為に寝ずの番をしてくれていると思うことは滅多に無いでしょう。私の経験で恐縮ですが、その有り難みを痛感した出来事をお話ししたいのです。ここ二年連続でICU(集中治療室)のお世話になりました。20区画ほどあって、一晩中あっちこっちでモニターのアラームが鳴り響いているんですね。他人事だとウトウトまどろんでますとハッと気付いたのです。自分のアラームが鳴ってるんです、怖かったですが、直ぐに看護師さんが来て「ああ、これは大丈夫ですよ。いざという時にはドクターが直ぐ来ますから」と言ってくれました。この時は、自分の為に寝ずの番をしてくれている人がいることの有り難みを痛感しました。
本題に戻り、5節です。
121:5 主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。
この5節は、新共同訳聖書の訳が判りやすいです。
新共同訳聖書 詩篇121:5 主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
ここで「陰」とは、かばって守ることだと判ります。変な譬えで恐縮ですが、TVで「遠山の金さん」等のヒーローが悪党の前に立ちはだかり、襲われた人に「私の陰にいなさい」と言って守る場面を思い出して下さい。6節は、このような全人格・全存在の守りを歌っています。
続く6節、
121:6 昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。
「主の守り」が、太陽と月の光が遮られた「陰」のイメージで告白されています。私たちは「昼は太陽があなたを撃つ」は良く判ります、日射病ですね。しかし月を愛でる風習がある私たちにとって「夜は月があなたを撃つ」は理解し難いです。しかし当時の考え方が判ると納得出来ます。マタイによる福音書4:24、17:15に「てんかん」を患う病人が登場しますが、「てんかん」の原意(もともとの意味)は「月に打たれた」です。古代は、「月」がてんかんを引き起すと考えられてましたので、6節の様な表現で四六時中の守りが歌われたのです。
3.「全幅の信頼」に応えて下さった神
さて、聖書を読む私たちは、「じゃあ神は『全幅の信頼』にどう応えて下さったのか」が気になるところです。
今から、神は既に素晴らしい御業で応えて下さっていることを新約聖書からお話しします。
(1)まず、神は御子イエスを「助け主」として天から遣わして下さりました。
Ⅰペテロ1:20 キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れたのである。
さらに、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼられた主イエスについてこう証言されています。
Ⅰヨハネ2:1 …父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。
その主イエスは、こう言われました。
ヨハネ14:26 …助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
弟子たちとともに生きたイエスの身体的臨在に変わる助け主が約束されました。
(2)そして、主イエスは「助け主」を遣わして下さりました。
使徒行伝2章に記されたペンテコステの出来事がそうです。今日はこの神の御業を記念する礼拝です。このように新約聖書を読んでいくと、詩篇121篇は「助け主」としてのイエス・キリストのご降臨とペンテコステとを指し示していることに気付かされます。
(3)今や、「助け主」は我が内におられます。ペンテコステは、遠い時代の遠い国での、私たちと無縁の出来事ではありません。私たちキリスト者の霊的現実がこう記されています。
Ⅰコリント6:19 あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。
4.私たちの信仰告白
再び、詩篇121篇に戻り、7節です。
121:7 主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。
「すべての災を免れさせ」と聞くと、もう“災難”に遭わないで済むんだと嬉しくなります。が、直ぐに「聖書はこう言うけど現実は違うよね」と覚めた気分になってしまうこともあるでしょう。これはゆゆしき事態ですが、聖句を自己流に解釈するとそうなります。7節の「災」とは、専ら《滅びに至る罪》のことです。聖書の文脈を思えばだいたいの見当が付きますが、「災」という言葉の他の用例を見るとはっきりします。
コロサイ3:5 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい…
ここで「悪欲」と訳された言葉が詩篇の7節では「災」と翻訳されているわけです。
そもそも「聖書が教えることと現実は違う」と思うこと自体、全幅の信頼が動揺していることではないでしょうか。「万物が神の意思で造られ保たれているのだから、そこで起こる一切の出来事も神の摂理の内にある」と信じられる信仰の深み高みへと私たちは導かれたいものです。
最後に8節です。
121:8 主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう。
「出ると入る」ということばですが、「古い生活から出て新しい生活に入る」との解釈も可能ですが、この詩篇では巡礼の「行きも帰りも」ですから、その人の全生活・全生涯が守られ、とこしえに至ることを歌っています。新約聖書にも同様の表現があります。先日の祈祷会で輪読した箇所ですが、
ヨハネ10:9 わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。
羊飼いに守られ導かれて、羊が囲い(所謂羊小屋)と牧草地とを行き来する情景から、まことの牧者主イエスに聞き従う人々守り、すなわち救いの確かさが教えられてます。ペンテコステを通して与えられた「助け主」に導かれ、主イエスの言葉を思い起こさせられた初代教会は、詩篇121篇を「主イエス・キリストを通して信仰者の人生に現される神の摂理の証し」と読んだのです。そして使徒信条の冒頭「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と主への全幅の信頼を告白してきたのです。
冒頭申し上げましたが、コロナ禍の終息で試煉が終えると考えてはなりません。
詩篇記者が「わたしは山にむかって目をあげる」と歌った如く、私たちの未来には「コロナ禍で痛めつけられた私たちの人生と社会の仕組みを立て直す」本当の試煉が立ちはだかっているからです。
この世は、懲りることなく“砂上の楼閣”(マタイ7:24以下)を再建しようとするかもしれませんが、私たちは“岩の上に家を建て”、地の塩世の光となる光栄と責任とに召されています。そこには旧約預言者たちと同様の困難が待ち受けていることでしょう。しかし、「主はあなたを守る」と約束されました。「わが助けは、天と地を造られた主から」既に来ています。そして私たちは「助け主」が内住する宮とされています。神の愛も知っています。私たちが主に全幅の信頼を置くうえで、いったい何が不足しているでしょうか。
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