人は誰もが幸せを願っています。でも幸せは人により千差万別だと思います。「さいわい」について、私たちの主イエスは山上の説教等で教えて下さいました。旧約聖書のこの詩篇ではイエス様の受難と復活を先取りするようにして「さいわいは、神に罪を赦されること」だと言っています。
1.この詩篇の目的
まず、標題に、
ダビデのマスキールの歌
とあることから、神はこの詩篇記者ダビデを通して「あなたも悔い改めを実践してさいわいな者とされようじゃないか」と私たちを招いておられるのです。
2.さいわいな人
32:1 そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。
32:2 主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。
“罪”と言っても様々で、法律上の罪もあれば社会的倫理道徳に反した罪もあります。そう言った罪が赦されるには当然相応の謝罪や償いが必要です。しかし、誰かに訴えられたり発覚さえしなければ、あるいはごまかし続けられれば罪に定められません。ところが、聖書が取り上げる罪は神との関係、対神関係で考えなければなりません。「神から離れて神に反抗すること、神が定められた善悪の基準を無視して自我に生きること」が罪です。そして、その人の良心が麻痺していなければ、どんなに隠しても罪は良心の呵責となり、その人の心に重くのしかかってきます。
今日の詩篇は、対神関係に於ける幸いを教えます。極論すれば、国の法律で裁かれ死刑に処せられる人でも神の御前で悔い改めるなら、地上では死刑を免れることは出来ずとも、神からその人は罪赦され、救われ、さいわいな人とされます。この事は主イエスの十字架の隣で悔い改めた死刑囚へのイエスの言葉(ルカ23:42-43 )からも明白です。
3.悔い改めの “Before and After”
(1) “Before ” 罪を隠していたときの苦痛
32:3a わたしが自分の罪を言いあらわさなかった…
詩篇記者は自分の罪を自覚していたからこそ「言いあらわさなかった」のです。人の口を封じ、自分の良心を黙らせ、神には知らぬ存ぜぬを貫き通して自己保身を謀ったのです。その間、
32:3b-4 …ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。/あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって かれるように、かれ果てた。〔セラ
4節末の「セラ」は楽譜の休止符に相当し、「ここで小休止して瞑想してごらん」と言う意味です。
神の御手は私たちの強力な助けになりますが、重くのしかかってくることもあるのです。
(2)信仰による解決
32:5 わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ
ここにも「セラ」とあります。神は、罪を告白した彼をいともたやすく赦されました。神は、罪に決して妥協されない義なるお方のはずですから、この気前良さは理解し難いです。ですが私たちの神は、神の一人子イエスを十字架につけてまでして私たちを救うお方です。放蕩息子の譬えの如く、神は悔い改めた者に慈しみ深いのです。
(3)“After”
32:6 このゆえに、すべて神を敬う者はあなたに祈る。大水の押し寄せる悩みの時にも/その身に及ぶことはない。
32:7 あなたはわたしの隠れ場であって、わたしを守って悩みを免れさせ、救をもってわたしを囲まれる。〔セラ
ここでも「セラ」、小休止して彼に起きた劇的変化に注目しましょう。罪の告白前は重圧であった神の存在が、「救をもってわたしを囲まれる」隠れ場に一変しています。これが救われることの実感です。
ここでちょっと寄り道して、旧約の時代と今の私たちの新約の時代の、相違点と共通点をお話しします。
3.1) 相違点
★旧約の時代
信仰(律法遵守)に対する報いは、専ら地上的(土地、子孫、繁栄)で、死後の報いとメシヤについては不明瞭。
★新約の時代
神御自身がこの世に来て、メシヤ、救い主とは神の御子イエス・キリストであることを啓示して下さりました。
信仰(御言葉への聴従)に対する報いは、旧約聖書の成就である主イエスの御生涯、とりわけ十字架とよみがえりによって具体的に示して下さいました。
3.2) 共通点
行いによらず信仰により義とせられることです。アブラハムは、
ヘブル11:8 信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。
のですが、ダビデは32篇5節の如く、悔い改めたらどうなるかを知らぬまま、ただ罪を告白しました。これが信仰です。現代の私たちについて、パウロはこう教えます。
ローマ10:9-10 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。/なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
この報いは人知を越えた気前が良すぎる程の罪の赦しと祝福です。
4.わたしたちに向けられた神の祝福
ダビデは、神の言葉を“代弁して”こう言ってます。
32:8 わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。
「あなたの行くべき道を示そう」この言葉通り主イエスは示して下さいました。
ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
「わたしの目をあなたにとめて、さとそう」。この「さとす」とは助言を与えることで、言いくるめることではありません。どうするかの判断はその人に委ねられています。私たちをさとす神の眼差しを、「主イエスの十字架とよみがえり」前後の出来事から感じ取るれます。まず、大祭司の邸宅での出来事です。
ルカ22:61-62 主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏がなく前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。そして外へ出て、激しく泣いた。
よみがえりの主イエスが、テベリヤの海べ(ガリラヤ湖畔)でペテロに向き合われたときは、
ヨハネ21:17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
32篇8節は、要するに「イエスを愛してごらん」です。続く9節も私たちをさとして言います。
32:9 あなたはさとりのない馬のようであってはならない。また騾馬のようであってはならない。彼らはくつわ、たづなをもっておさえられなければ、あなたに従わないであろう。
あなたは獣なんかじゃあ無いだろう!? ならば、
ルカ9:23 …「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
と神は言われます、
32:10 悪しき者は悲しみが多い。しかし主に信頼する者はいつくしみで囲まれる。
32:11 正しき者よ、主によって喜び楽しめ、すべて心の直き者よ、喜びの声を高くあげよ。
11節の御言葉の成就である主イエスのよみがえりこそ、信仰者が受ける永久に変わらない報いの確証、言い尽くせぬ喜びの源です。
Ⅰコリント15:17, 20 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。//しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。
アーメン
■この日の讃美歌・信仰告白
148番「すくいのぬしは ハレルヤ」
146番「ハレルヤ ハレルヤ たたかいおわりて みさかえうけたもう」
