「主は我らの助け、また盾(1)」

「主は我らの助け、また盾(1)」

115:1 主よ、栄光を/われらにではなく、われらにではなく、あなたのいつくしみと、まこととのゆえに、ただ、み名にのみ帰してください。
115:2 なにゆえ、もろもろの国民は言うのでしょう、「彼らの神はどこにいるのか」と。
115:3 われらの神は天にいらせられる。神はみこころにかなうすべての事を行われる。
115:4 彼らの偶像はしろがねと、こがねで、人の手のわざである。
115:5 それは口があっても語ることができない。目があっても見ることができない。
115:6 耳があっても聞くことができない。鼻があってもかぐことができない。
115:7 手があっても取ることができない。足があっても歩くことができない。また、のどから声を出すこともできない。
115:8 これを造る者と、これに信頼する者とはみな、これと等しい者になる。
115:9 イスラエルよ、主に信頼せよ。主は彼らの助け、また彼らの盾である。
115:10 アロンの家よ、主に信頼せよ。主は彼らの助け、また彼らの盾である。
115:11 主を恐れる者よ、主に信頼せよ。主は彼らの助け、また彼らの盾である。
日本聖書協会『口語訳聖書』詩編 115篇1~11節

新型コロナウイルス禍という災禍によって全世界が激しく篩(ふる)われ、人間社会のあらゆる営みの“真価”が試されています。もちろん私たちキリスト者の生活も、また信仰もです。
先日のコロナ禍を報じたニュースに「善光寺の、触れると病気や痛みが治るとされるびんずる尊者像にも触れないで」と求める掲示が張り出されたとありました。心の拠り所にしておられた方の話も伝えられてましたが、お気の毒としか言いようがありません。しかし、これは他人事ではありません。私たちは「あなたの神はどこにいるのか」、「『貧しい人たちは幸いだ』などとよく言えるな!」と、私たちの信仰も試みられています。しかし、この時こそ「主は我らの助け、また盾」であることを証し、「栄光を主のみ名に帰す」チャンスでもあります。今日から三回にわたり詩篇115篇の御言葉に聞いて参りましょう。


1.栄光を主の御名に帰すると言うこと??
 115:1 主よ、栄光を/われらにではなく、われらにではなく、あなたのいつくしみと、まこととのゆえに、ただ、み名にのみ帰してください。
 115:2 なにゆえ、もろもろの国民は言うのでしょう、「彼らの神はどこにいるのか」と。

この言い回しは、現代人にはなかなか理解しにくいでしょう。そこで思い出して頂きたいのですが、旧約聖書や考古学・世界遺産に登場する国々は、それぞれ自分たちの存在の根源としての神を持っていました。ですから戦いに勝利すると、敗けた側の神を徹底的に辱め破壊し、自分たちの神に戦勝感謝の祭礼を奉納しました。この様にして勝利の栄光を自分たちの神に帰したのです。
こういった背景があって、イスラエルを征服せんと敵国が攻め込んできた時、またイスラエルがバビロン捕囚となった間、唯一真の神への信仰を明らかにしていたイスラエルの人々は、「彼らの神はどこにいるのか」、あいつらの神はいないにも等しいじゃないか、と嘲られ続けたのです。この詩篇は、
①そのような苦境と嘲りに遭いながらも、聖書の神への信仰に堅く立った結果を証しします。
②「『主は我らの助け、また盾』となり自分たちの命を守って下さった」と「栄光を主のみ名に帰」しています。
③信仰者がいついかなる苦境に立とうとも「主は我らの助け、また盾」となって下さる。あなたも「栄光を主のみ名に帰す」ことが出来る。聖書の神に信頼して現実をしばらく堅忍しよう、と詩篇の読者を励ましています。


2.信仰者の現実 「もろもろの国民」に嘲られるが…
真の神を知ろうとしない罪人(つみびと)は、自分の経験や目の前の状況だけで物事を判断して高ぶり、私たち信仰者ばかりか私たちの命の根源である神をも嘲ります。しかし、主は侮られて終わるお方ではありません。
(1)ダビデと、ペリシテ人ゴリアテの戦い
ペリシテ人の戦士ゴリアテが対峙したイスラエル軍を嘲った時、当時羊飼いだったダビデはこう答えました。
 サムエル記上 17:45-47 ダビデはペリシテびとに言った、「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。/きょう、主は、おまえをわたしの手にわたされるであろう。わたしは、おまえを撃って、首をはね、ペリシテびとの軍勢の死かばねを、きょう、空の鳥、地の野獣のえじきにし、イスラエルに、神がおられることを全地に知らせよう。/またこの全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである」。

(2)エルサレムを包囲したアッスリヤ王の書簡と、ヒゼキヤ王
 列王下19:10-12 「ユダの王ヒゼキヤにこう言いなさい、『あなたは、エルサレムはアッスリヤの王の手に陥ることはない、と言うあなたの信頼する神に欺かれてはならない。/あなたはアッスリヤの王たちがもろもろの国々にした事、彼らを全く滅ぼした事を聞いている。どうしてあなたが救われることができようか。/わたしの父たちはゴザン、ハラン、レゼフ、およびテラサルにいたエデンの人々を滅ぼしたが、その国々の神々は彼らを救ったか。
 19:16 主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いてごらんください。セナケリブが生ける神をそしるために書き送った言葉をお聞きください。

(3)神の御子イエス・キリストですら十字架上で嘲られた
 マタイ 27:41-42 祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、/「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。
しかし、主はよみがえられました。

(4)私たちは大丈夫、嘲られないと思ってませんか。イスラエルの民は、神への信仰を明らかにしたが故に2節の様に嘲られたのです。このコロナ禍の最中に、私たちが信仰を鮮明にすれば、冒頭お話しした様に嘲られることを覚悟すべきです。しかしその時、主イエスの言葉が自分の出来事になっています。
 マタイ 5:11-12 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。/ 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

ここで、もう一度1節に注目してみましょう。
 115:1 主よ、栄光を/われらにではなく、われらにではなく、あなたのいつくしみと、まこととのゆえに、ただ、み名にのみ帰してください。

「われらにではなく」と繰り返していることから、自分たちの身の安全以上に、その安全をもたらして下さる神の栄光(名誉)を優先していることが判ります。これ程迄の神への信頼の根底に何があるのか心引かれます。それは、詩篇記者の神は『語る神』だったことです。詩篇記者の神であり私たちの神でもある主は、4節以下(次回お話しします)に記された諸々の神々、偶像と決定的に異なった『語る神』であることです。


3.『語る神』
ここで、少しの間詩篇115篇から離れて『語る神』についてお話しします。
(1)言葉による創造
創世記1章は、全被造物が神の言葉により創造され秩序を与えられたと記します。詩篇19篇は、創造以来、被造物の世界に『語る神』が確かにおられることを讃美しています。
 詩編19:2-4この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。/ 話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、/ その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。
(2)おきてを語る
『語る神』は、自然界ばかりか人間社会に秩序を与えます。
 詩編 19:8-11 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。/ 主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。/ これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。/ あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。これらを守れば、大いなる報いがある。

おきてや律法は束縛ではなく、人間を守って生かす神の愛の表れです。

(3)神の言葉は「出来事」となる
「語る神」は万物を創造し、おきてや律法を教え人間を生かすだけではありません。神は人間の歴史に関わられます。それは偶然や無意味な出来事ではありません。
 イザヤ 55:10-11 天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。/ このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。

そして神は、聖書を通して出来事の意味を語って下さるので、私たちは御言葉により物事を霊的に洞察できます。そして私たちは、出来事に慌てふためくことなく岩の上に堅く立ち続けるのです。
「語る神」の言葉が出来事となった最大の出来事を忘れてはなりません。
 ヨハネ 1:1-4 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。/ この言は初めに神と共にあった。/ すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。/ この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。

「語る神」は義であり愛である御自身の元へと人を招き、堕落により失われた永遠の命を回復して下さります。


4.神への信頼
詩篇に戻ります。この詩篇記者は、自分の信頼する神がこの様な「語る神」であることを実体験を通して知っていたからこそ、詩篇115篇の証しを為し得たのです。その神は、今も私たちが信頼し依り頼む神です。
 115:3 われらの神は天にいらせられる。神はみこころにかなうすべての事を行われる。天と地が遥かに離れているように、

天をも治める神とこの地上の支配者たちとの間には、かけ離れた力の差がある。神は御心のままに何でもいつでも行う力(主権)を持つ、と詩篇記者は神を証しています。つまり、
(1)私たちイスラエルが窮地に追いやられたのは、イスラエルに敵する国々の力が勝っていたからではない。
(2)神は、御自身の御心と主権により私たちを試練に遭わせ、また窮地から助け出して下さった。
(3)「語る神」は、私たちの艱難の目的を教えて下さった。それは、このような試練に遭わなければ神に目を向けない不信仰な神の民に神の誠実さと恵みを示し、悔い改めさせる為であった。


結び
今は、善人も悪人も、富む者も貧しき者も、信者も未信者も、コロナ禍によって誰もが激しく篩(ふる)われ、真価が試されています。しかし神は、私たちがこの試練に耐え忍べるよう、逃れの道も備えて下さっています。
 ヨハネ 1:9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。/1:14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

「語る神」は御自身の栄光を既に私たちに見させて下さいました。その神に信頼し、今暫くの試練を堅忍し練り上げられていく私たちに「主は我らの助け、また盾」でいて下さいます。そして私たちが、新たな「栄光を主の御名に帰する」時が必ずきます。

讃美歌 6番「われら主をたたえまし」
讃美歌 270番「信仰こそ旅路を みちびく杖」

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