詩篇27篇は格調高い感動的な言葉で、信仰とはどのようなものであるかを教え、神は私たちの命の砦であるとの確信へと導きます。多くの人々に愛読される所以です。
1.「信仰告白」(1-16節)
(1)信仰とは住人になる事
英語訳聖書は、聖書の「信仰」を believe in ... と前置詞「in」を用いて翻訳しています。つまり、信仰とは「一晩二晩の投宿」ではなく、「そこの住人になる事」との意味合いを明瞭にしています。
主イエスはこう言われました。
ヨハネ12:46 わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。
この主イエスの言葉に重ねて27篇1節を読んでみましょう。
27:1 主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう。
このように、「信仰」とは、闇から脱出して、光であり命の砦となって下さる神の中に住まうことです。
(2)信仰とは、人を恐れず主に信頼すること。
聖書は、様々な表現でこのことを教えてくれます。
箴言29:25 人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。
イザヤ51:12 「わたしこそあなたを慰める者だ。あなたは何者なれば、死ぬべき人を恐れ、草のようになるべき人の子を恐れるのか。
2節以下は、誹謗中傷を浴びせかける敵が総攻撃を仕掛けてくる緊迫した状況下での信仰告白です。
27:2-4 わたしのあだ、わたしの敵である悪を行う者どもが、襲ってきて、わたしをそしり、わたしを攻めるとき、彼らはつまずき倒れるであろう。/たとい軍勢が陣営を張って、わたしを攻めても、わたしの心は恐れない。たといいくさが起って、わたしを攻めても、なおわたしはみずから頼むところがある。/わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。
4節の「一つの事」とは、様々な願いの中でも第一のものを意味します。その彼の最優先の望みは、敵の襲撃から守られ安んじられる所で主を礼拝することでした。彼は「神の国とその義とをまず第一に求め」(マタイ6:33)たのです。
2.主に直接向けた「祈り」(7-13節)
27:7 主よ、わたしが声をあげて呼ばわるとき、聞いて、わたしをあわれみ、わたしに答えてください。
せっぱ詰まった祈りですがその動機は、敵と窮状を恐れてと言うよりは、
詩篇91:15 彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。
この神の約束と招きを知るからこそ、詩篇記者はこう祈れたのです。
27:8-9 あなたは仰せられました、「わが顔をたずね求めよ」と。あなたにむかって、わたしの心は言います、「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。/み顔をわたしに隠さないでください。怒ってあなたのしもべを退けないでください。あなたはわたしの助けです。わが救の神よ、わたしを追い出し、わたしを捨てないでください。
10節では主への信頼の深さが具体的な言葉で現されます。
27:10 たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう。
父母は人間関係の中で最も頼れる存在ですが、親と言えども有限な存在です。時と場合によっては子を守り切れないこともあることを弁えていて「主がわたしを迎えられる」と言えたのでしょう。
このことは次の主イエスの言葉を正しく理解する手がかりになります。
マタイ10:37 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。…
27:11,13 主よ、あなたの道をわたしに教え、わたしのあだのゆえに、わたしを平らかな道に導いてください。/わたしは信じます、生ける者の地でわたしは主の恵みを見ることを。
詩篇記者は今の危機的状況の先に、主の恵みを現実に味わえる「生ける者の地」を望み見ています。この「生ける者の地」とは天の御国に限定されません。この世で、信仰の友と交わり共に礼拝できる場所でもあります。
3.時代を越えて為される証人たちの励まし(14節)
27:14 主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め。
この詩篇27篇は、一人の詩人だけの信仰告白に留まりません。誤解され悩まされ続けた信仰者の言葉でもあります。
(1)旧約聖書の時代
創世記の(エジプトの)ヨセフ、さらにはモーセ、ダビデ、アハブとイゼベルに苛(さいな)まれたエリヤ、エレミヤ、そしてネへミヤ等々の預言者たちを思い出します。彼らはみな、誹誘中傷され悪意に満ちた言葉で苦しめられ迫害されたのです。しかし信仰と祈りという“車の両輪”でもって「生ける者の地」へ馳せ参じることが出来ました。
(2)主イエス・キリスト
主イエスも、言葉で攻撃され苦しめられ十字架に掛けられました。その時の様子がこう記されています。
マタイ26:59-63抜粋 祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするためにイエスに不利な偽証を得ようとした。 /多くの偽証人が出て来た/大祭司が立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているのは、どういうことか。」/しかし、イエスは黙っておられた。
なぜ不正な裁判がまかり通ったのか、その理由を手短にお話ししましょう。
当時、裁判では証人が起訴事実を提出する役割を果たし、法廷には今日のような弁護人も「公正な裁判を保証する裁判官」もいなかったそうです。また、社会は十戒を土台として成り立っていましたので、真に神を恐れるなら「十戒」を犯す偽証や不正な裁判など有り得ませんでした。
ところが、神を恐れなくなった社会では、法廷は無実な者に何の手立ても持たなかったのです。その様な法廷でイエスは裁かれたのです。
しかし、しかしです。今日の詩篇27篇を思い返して下さい。人間的には孤立無援の窮地に追いやることが出来ても、信仰者が神に訴え助けを求め、神から公正な裁きと報いを受ける術(すべ)を誰も奪えないのです。このことを主イエスは言われました。
マタイ10:28 また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。
私たちは主イエスのよみがえりの事実を思い起こさねばなりません。父なる神は、イエス・キリストをよみがえらせ、天に引き上げ、神の右の座に座らせるという死に完全勝利を、栄光を主イエスに与えられました。
今日の詩篇27篇は主イエスの地上の御生涯そのものです。神は主イエスを、詩篇27篇が成就する“器”として用いられ、御言葉が私たちにも真実であることを示されたのです。
(3)主イエスの弟子たちや初代教会の信徒
彼らも誤解され悩まされ続けた信仰者です。使徒行伝に、使徒が占いの霊に憑かれた女奴隷を解放したことで不当に訴えられ投獄された出来事が記されています。
使徒16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。
この時に詩篇27篇が歌われ、牢全体に響き渡り、囚人たちが聞き入っていた、と想像することは自然なことだと思います。そのパウロは伝道し続けました。
ローマ8:31 …もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。
4.むすび
27:1 主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう。
私たちもこの詩篇が真理であることの証人です。私たちは信仰という莫大な富を神からいただいています。神はその私たちに期待しておられます。神が命の砦であることを、私たちの言葉や生き様で明らかにしていくことを。
また、命の砦である神こそ、私たち以上に困難な時代を生きるかもしれぬ家族や子どもたち孫たちに相続させられる最高の財産です。
■この日の讃美歌・信仰告白
24番「父のかみよ 夜は去りて」
400番「主よ、わが痛みの おさえがたく」
399番「なやむものよ、とく立ちて」
ウェストミンスター小教理問答 問17~20
http://www.rcj-net.org/resources/WCF/text/index.htm
