「神の御前にふさわしい者」
ダビデの歌
15:1 主よ、あなたの幕屋にやどるべき者はだれですか、あなたの聖なる山に住むべき者はだれですか。
15:2 直く歩み、義を行い、心から真実を語る者、
15:3 その舌をもってそしらず、その友に悪をなさず、隣り人に対するそしりを取りあげず、
15:4 その目は神に捨てられた者を卑しめ、主を恐れる者を尊び、誓った事は自分の損害になっても変えることなく、
15:5 利息をとって金銭を貸すことなく、まいないを取って/罪のない者の不利をはかることをしない人である。これらの事を行う者は/とこしえに動かされることはない。
日本聖書協会『口語訳聖書』詩編 15篇1~5節
この詩篇は、私たちに倫理的律法的な行いを求めているように読まれがちですが、実際は福音そのものです。私たちには、自分の罪ゆえに神が欲する“正しい振舞”を為し得ない弱さがあります。しかし神は、私たちが主イエスに依り頼むなら、その信仰の故に「神の御前にふさわしい者」として恵みに与らせて下さります。そして、神の恵みと罪の赦しを知った心からは、あらゆる人間関係における“正しい振舞”が生まれ出て来ます。
1.この詩篇の背景
この詩篇が用いられたのは、巡礼者たちが神殿の聖所(礼拝の場)に入る時だったろうと考えられています。巡礼者たちは、神を拝するうえでの“資格”を問います。すると内側にいる祭司は神からの答を授ける、そういった一種の式文として用いられたようです。
この問答は、コロナ感染防止の為の入場可否チェックを思い出させます。しかし、決定的な違いがあります。それは、この問答は礼拝参加の可否を判断するものではなく、自分が神の御前にふさわしいかどうかを吟味する為の問答です。
人の心の内を知られる主は、霊と真とをもって為される礼拝を喜び受け入れて下さいます。しかし、形ばかりの礼拝は嫌悪されます。ですから、神を礼拝する“資格”について答えを聞いた礼拝者たちは、自分を吟味し、自分の罪深さ不適格さを認め、まごころから罪の赦しを乞う犠牲を捧げて礼拝したのです。この様にして礼拝者たちは罪の赦しと祝福に与り、日常生活へと出て行ったのです。
2.問(1節)とその答え(2-5節)
2.1 問
15:1 主よ、あなたの幕屋にやどるべき者はだれですか、あなたの聖なる山に住むべき者はだれですか。
1節では聖書独特の詩的表現が使われています。「聖なる山」と言われてますが、日本の山岳信仰とは異なります。聖書では、山そのものが神格化される事は無く、あくまでも神の創造物の一つに過ぎません。「聖なる山」も「あなたの幕屋」も、神が選ばれ神が臨在される場所であり、人間の讃美と祈りがなされ、見えない神との親しい交わりが持たれる場所です。
ですからここでは「神様!、私はあなたと共にいたいのです。あなたから客人の様に親切に扱われ危険から守られ、恩寵の中に生活したいのですが!」と尋ねているのです。
2.2 問への答え
(1)三つの基本原理(2節)
2節には主からの答として、三つの基本原理がしめされます。
15:2 直く歩み、義を行い、心から真実を語る者、
「直く歩む」は「完全に無垢(むく)」に、神と人との前で欠けのない生活を心がけていること。
「義を行う」は神が求める義の基準に合致した正しいことを心がけ実行すること。
「心から真実を語る」は嘘偽りが無く全幅の信頼を置ける事を語ることです。また、自分が正しいと思うことや良心に忠実に行動する勇気ある態度でもあります。
(2)基本原理の具体的実践(3-5節前半)
続く3-5節では、基本原理の具体的実践について教えられます。まず対人関係です。
15:3 その舌をもってそしらず、その友に悪をなさず、隣り人に対するそしりを取りあげず、
3節の「そしり」「悪」は、ことばによる悪しき行為を指しています。また、「舌をもって」には、「舌が歩き回る」という意味もあります。歩き回って人を中傷し、悪いうわさをまき散らす人は、礼拝者として相応しくないのです。
第九戒 汝、その隣人(となり)に対して偽りの証(あかし)を立つるなかれ。
神の御前に立とうとする者は、この実践が求められます。しかし現代は実に悲しむべきことに、歩き回わるだけでなく、文明の利器ネットを匿名で使った「ことばによる悪」が蔓延する極めて罪深い時代です。
続く4節は識別眼と選択力についてです。
15:4 その目は神に捨てられた者を卑しめ、主を恐れる者を尊び、誓った事は自分の損害になっても変えることなく、
4節には少々引っかりますが、「神に捨てられた人」とは、神を恐れず悪を行う人々のことです。そう言う人々を「卑しめる」とは退けること、こうお話しすれば納得できるでしょう。
神を恐れる信仰者の目はそのような悪しき人々を識別し、そうした生き方を望まず、そのような者との交わりを喜びません。パウロはこう勧めています。
ローマ 12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
5節は社会秩序と倫理の基盤である公正・正直・潔癖についてです。
15:5 利息をとって金銭を貸すことなく、まいないを取って/罪のない者の不利をはかることをしない人である。…
ここでの「利息」は不当な利息のことです。経済倫理を支えるものは、公義と隣人愛です。人間が人間らしく生きる為に授けられた十戒の第八戒に「汝、盗むなかれ」とありますが、他人の損害を顧みないでひたすら自分の利益のみを追求することや、貧しい者や弱者を食い物にし虐げるやり方は神に憎まれます。いずれ神に裁かれます。歴史を見れば、「まいない」(賄賂)は共同体の健全な力と結びつきを破壊する“癌”であることが明明白白なのですが、「神に捨てられた者」はその事を学べない様です。
(3)祝福(5節後半)
この詩篇は「これらの事を行う者は/とこしえに動かされることはない」との祝福で終っていますが、誤解してはならないことがあります。新約聖書にこう書かれています。
ヤコブ2:18 しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。
「行いによって、神の祝福を得なさい」ではなく、「信仰により授かっている祝福を、行いで現しなさい」と言うことです。ところで、私たちは「直く歩み、義を行い、心から真実を語る」に十分な日々を送っていますか。むしろ、神が欲する“基本原理”を行えない自分の弱さ罪深さを知って日々葛藤しているのではないでしょうか。ならば、私たちは、神を礼拝するのに相応しくないのでしょうか。
いいえ。主イエスへの信仰の故に、私たちは「神の御前にふさわしい者」とされます。
3.詩篇15篇は福音を指し示す
(1)詩篇15篇1節では二度繰り返して、神の御前に相応しい人は「だれですか」と問うています。
(2)「直く歩み、義を行い、心から真実を語」れない人であっても、旧約律法(申命記17:1等)に定められた犠牲(いけにえ)をまごころから捧げる礼拝が為されることで罪が赦され、神の御前に相応しいと祝福されました。
(3)ところで、詩篇15篇1節で「だれですか」と繰り返された問いは、実は「天にのぼり、全能の父なる神の右に座」しておられるイエス・キリストを暗示しています。
(4)私たちも、使徒信条で「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり」と信仰を告白しています。主イエスが天にあげられ神の右に座されたのは、この詩篇15篇の通り、父なる神の御前に相応しいお方だったからに他なりません。初代教会の人々も同じ答えを持っていました。それで教会は昇天記念日に、この詩篇を読んできたのです。
(5)ですから、完全には「直く歩み、義を行い、心から真実を語る」ことが出来ない私たちは、十字架に掛かって私たちの罪の贖いを成し遂げ、“全き犠牲”となって下さった「主イエスへの信仰と愛」を礼拝で捧げる時、罪が赦され神の御前に相応しいと祝福されるのです。
コロサイ1:21-22(新約315頁) あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。/しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。
と書かれているとおりです。神は、私たちの背中を押してこう言われます。
ヘブル4:16 …恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。
4.私たちが為すべき事
私たちは、特別な状況変化が無い限り、来週14日から会堂で一堂に会した礼拝に与れることでしょう。そこでは、二ヶ月ぶりに信仰の友と相まみえて礼拝出来る喜びが沸き立つことでしょう。
しかし今日の聖書は、私たちが礼拝に与るうえで心しなければならないことを教えています。神が喜ばれる礼拝とは、第一に「主イエスへの信仰と愛」という“全き犠牲”が捧げられる礼拝です。地上的人間的な喜びは、その後に与えられるものです。
ウェストミンスター小教理問答 問1で、人間の生涯を決する究極的な目的を私たちは告白してきました。
人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである。
礼拝の第一の目的も「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」ことです。その為に私たちも、
15:1 主よ、あなたの幕屋にやどるべき者はだれですか、あなたの聖なる山に住むべき者はだれですか。
と自らに問いかけ、礼拝に与る備えをしましょう。そして、罪の赦しと祝福をいただいて、新たな日常の生活へと送り出されてまいりましょう。
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