2019年度の聖日礼拝説教(12件)

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2019年度の聖日礼拝説教 (新しい順)

の日曜礼拝で語られた礼拝説教の原稿を公開しています。

クリスマス記念礼拝 「今日は救いの日」

聖書
詩編 118篇24-25節
説教
岡本雅幸牧師
クリスマス記念礼拝 「今日は救いの日」

1.今日という特別な日 118:24 これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。この箇所を新共同訳聖書は「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。」と訳しています。特別な日…

2019年12月15日(日)聖日礼拝 「栄光の王を迎えよ!」

聖書
詩編 24篇1-10節
説教
岡本雅幸牧師
2019年12月15日(日)聖日礼拝 「栄光の王を迎えよ!」

クリスマス礼拝を来週に控えて詩篇24篇?と怪訝に思われるかも知れませんが理由があります。この詩篇は、「栄光の王を迎えよ!」、「神がどんなに大きな事をして下さったか喜ぼう!」と歴史に残る「神の訪れ」を回顧し…

「信仰があってこそ」

聖書
詩編 12篇1~-8節
説教
岡本雅幸牧師
「信仰があってこそ」

詩篇12篇について、ラジオ伝道者としても著名な羽鳥明先生が、御自身の著書『今日の詩篇|明日の詩篇』の中でこう言っておられます。詩篇12篇は、社会的倫理が地に墜ちた時代に、神の救いを求めて叫ぶ祈りの詩です。…

「主の慈しみはとこしえに」

聖書
詩編 136篇1~9節
説教
岡本雅幸牧師
「主の慈しみはとこしえに」

1.相反する二種類の信仰の存在信仰には二種類あると言われます。ひとつは、人間が神の恵みを引き出そうとする信仰、なんとかして神から恵みを得ようとする信仰です。日本古来のお百度参りや水垢離(みずごり、神仏に…

「私の罪は私の前にある」

聖書
詩編 51篇1~6節
説教
岡本雅幸
「私の罪は私の前にある」

現実には殆どないと思いますが、「あなたは罪を犯したことがありますか」と突然問われたら、不快に思うでしょう。ふと良心に痛みを感じることならあるのでしょう。しかし「これくらいのことは皆やっている、たいし…

「神の救いを待ち望む」

聖書
詩編 3篇1~8節
説教
岡本雅幸
「神の救いを待ち望む」

本題に入る前に、今日の詩篇を読み解く鍵となる聖書箇所を開いてみましょう。ローマ5:1-5 このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得…

「神はわれらの避け所」

聖書
詩編 46篇1~11節
説教
岡本雅幸
「神はわれらの避け所」

1.さいわいな人(1)「いと近き助け」を見いだした人 46:1-3 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。/このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。/たといその…

「神を自分のどこに置くか」

聖書
詩編 16篇1~11節
説教
岡本雅幸
「神を自分のどこに置くか」

この詩篇は、信仰に生きる人生とそうでない人生を比較しながら、神への全き信頼から来る平安と希望、喜びあふれる人生の素晴らしさを歌っています。1.「わたし」と「あなた」「わたし」と名乗る詩人が、危機が追い…

「なぜ国々は騒ぎ立ち」

聖書
詩編 2篇1~9節
説教
岡本雅幸
「なぜ国々は騒ぎ立ち」

この世には、あきれるほど多種多様の“敵”が存在します。覇権を争いあう国家・民族といった敵、人間関係における“敵”、生活上の困難、試練、誘惑等々。しかし、そのような“敵”がいかに騒ぎ立てようとも、私たちは神…

「悪しき者の末路」

聖書
詩編 1篇1~6節
説教
岡本雅幸
「悪しき者の末路」

大勢の方々に愛読される詩篇は個人的な信仰の歌にとどまりません。主イエスはこう言われました。ルカ24:27 …モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあか…

「正しい者の幸い」

聖書
詩編 1篇1~6節
説教
岡本雅幸
「正しい者の幸い」

全部で150篇からなる詩篇は、多くのキリスト者の座右の書として、愛し慕われ続けています。この詩篇には、聖書を読み解く鍵となる言葉がいくつかあります。そのひとつが、今日の詩篇一篇の主題にもなっている「正し…

「力と愛と分別の霊(2)」

聖書
テモテへの第二の手紙 1章6~12節
説教
岡本雅幸
「力と愛と分別の霊(2)」

「イエスは失敗もした」と言われたら、まさかと思ったり反発することでしょう。しかし、イエスが徹夜の祈りの後に選んだ十二弟子(ルカ6:12-13)は、三年間の教育訓練を受けたにもかかわらず、イスカリオテのユダは銀貨30枚でイエスを売り、他の弟子たちはゲッセマネの園でイエスを見捨てて逃げ去り、代表格のペテロは三度もイエスを否認しました。これらをイエスの失敗と言わずしてなんと言えるでしょうか?しかし、そうではありません。もし、十字架上で死んで墓に葬られたイエスがよみがえらず、昇天されず、聖霊を弟子たちに下すというペンテコステ(聖霊降臨)の出来事も起きなかったら、イエスは失敗したと言われても仕方ないでしょう。しかし事実、イエスはよみがえられ、天に昇られました。そしてペンテコステにおいてイエスは弟子たちに聖霊、すなわち、「力と愛と慎みの霊」を天から下し、この聖霊によってキリストは彼らを別人のように造り変えられたのです。そればかりではありません。「力と愛と慎みの霊」は私たちも造り変えて下さります。もう、この世と人とを恐れる必要は無く、キリストを否むことも福音を恥とすることもありません。

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