1.さいわいな人
(1)「いと近き助け」を見いだした人
46:1-3 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。/このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。/たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。
なんと力強い確信でしょう。天地万有の神を「神はわれらの避け所また力」と言い切ってます。その人自身の力ではなく、信仰によって全知全能の神に直結した時に与えられる力強さです。また、実際に神を「いと近き助け」として経験して、人生の荒波を超えてきた人々が口に出来る言葉です。言い換えれば、神以上に頼るものを持っている人には言えません。
(2)神が共にいてくださる人
46:4-5 一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる。/神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる。
島国の日本には数えきれないほどの川があり、あちらこちらで町が栄えてきました。しかし果てしなく続く荒れ地と砂漠に囲まれたパレスチナでは、ごく限られた水資源がある場所でのみ人の営み可能でした。
その様な過酷な自然環境ばかりか異民族の国々に囲まれながらもエルサレムが揺らぐことがないのは、川が流れ込む町が栄える如く神が都の内にいて守って下さっているからだ、と詩篇記者は神を誉め讃えています。
46:6-7 もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く、神がその声を出されると地は溶ける。/万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。〔セラ
これは、紀元前701年アッシリヤによるエルサレム包囲から奇蹟的に救われたこと(列王記上18章、イザヤ書36章以下)、神が共におられることこそ平和と安全の保障だということを歌っていると言われます。
(3)来て見る事が出来た人
46:8 来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。
主は私たちを難敵に勝利させて下さった。そのことを、皆自分で確かめてみなさいと、揺れ動き、様々な緊張関係にある人々に向かって詩篇記者が呼びかけます。
46:9-11 主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。/「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。/万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。〔セラ
人類の歴史は戦いの歴史ですが,究極の平和をもたらして下さる神を受け入れ、そのような緊張関係を捨てて静まれと聖書は今も呼ばわっています。
2.私たちへの霊的メッセージ
(1)聖なる確信が自分のものとなっているか?!
さて、説教の冒頭、
46:1-3 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。/このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。/たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。
この聖句にみなぎっているのは
-天地万有の神を「神はわれらの避け所また力」と言い切る力強い確信。
-信仰によって神に直結した時に神から与えられる力強さ
-実際に神を「いと近き助け」として経験してきた人々だけが口に出来る言葉。
とお話ししましたが、さて、私たちは今日の御言葉に、どの程度共感できているでしょうか。うん、そうだそうだ、とうなずけているでしょうか。その度合いは、これ迄にどれほど「神の国と神の義」とを求めてきたか、「神と富とに兼ね仕え」てこなかったかに左右されます。
(2)神があなたと共におられるか?!
46:4-5 一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる。/神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる。
荒れ地と砂漠、異民族の国々に囲まれながらもエルサレムが揺らぐことがないのは、水資源を持つ町が栄える如く、神が都の内に共に居て守っていて下さるからだ、と神が誉め讃えられているとお話ししました。この情景を彷彿とさせる御言葉があります。
黙示録22:1-2 御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、/都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。
また、主イエスはこう言われました。
ヨハネ4:14 …わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。
神の御子主イエスこそ命の水の源であり、そこから流れ来る命の水によって、真実に生きられるのです。
人類は古代から水資源の確保に注力し灌漑に英知を注いできました。ところが、霊的な「命の水」には殆ど見向きもしませんでした。命の水の源である神を捨てました。いのちの水の源流、神を捨て、神を侮り、人間の力に慢心したこと、これが世界の混乱と荒廃、家庭や学校教育の荒廃をもたらしたのではないでしょうか。
(3)来て、見て、静まれ 神は平和を成し遂げる
46:8-11 来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。/主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。/「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。/万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。
「来て、主のみわざを見よ」、平和をもたらす方が真の神、全世界の神であられる、と言っているわけですが、バプテスマのヨハネも言いました。
ヨハネ1:29 その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
また、パウロはこう証言しています。
エペソ2:14-16 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、/数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、/十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。
イエス・キリストこそ、詩篇記者が「見よ」と呼ばわった平和をもたらす真の神なのです。
3.むすび
46:1-2 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。/このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
ともすると私たちは、このような信仰を持てるのは偉大な人、信仰の人と言われる特別な人たちだけだ、私などとは違うのだと考えがちですが、そうではありません。偉大な人、信仰の人と言われる人々が悩んだり苦しんだりすることは私たちとなんら変わりがないか、あるいはかえって多いくらいです。私たちと違うのは、信仰に立ち続けようと戦い、戦いの中で近き助けを見いだし、避け所を得ていたことです。
宗教改革者として有名なルターでさえ信仰が消えかかったこともありました。妻が彼の部屋に喪服ではいっていき「神がなくなりました」と言ったおかげで、彼の心に再び光が与えられ、あのヴォルムスの裁きの座に立ち、讃美歌267番を詩篇46篇に基づいて作り、御言葉の確かさを証できたのです。
また、讃美歌512番では、君(イエス)は谷の百合、あしたの星と歌います。しばしばそこで歌われる「谷」は百花繚乱、花が咲き乱れる谷と思われがちですが、歌詞を注意深く味わって下さい。言葉遣いこそ穏やかですが、いわゆる「暗黒の谷」を暗示しています。
誰にでも、涙の谷を、死の谷の陰を通るようなことが必ずあります。そのような時こそ近き助けを見いだして戴きたいのです。
暗やみの中で、足元に咲く百合の花に気づくか、天を仰いで明けの明星を見つけられるか、このことが人生を決します。
聖書は私たちに「来て、主のみわざを見よ」「静まって、わたしこそ神であることを知れ」と呼ばわります。近き助けを見いだした人は、たといどんな困難が次々と押し寄せてこようとも、「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。」と神を誉め讃えることが出来ます。
■この日の信仰告白
使徒信条
■この日の讃美歌
20番「主をほめよ、わがこころ いまわのときまで」
267番「神はわがやぐら、わがつよき盾」
512番「わがたましいの したいまつる」
