「悪しき者の末路」

「悪しき者の末路」

1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
1:4 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
1:6 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。
日本聖書協会『口語訳聖書』詩編 1篇1~6節

大勢の方々に愛読される詩篇は個人的な信仰の歌にとどまりません。主イエスはこう言われました。

ルカ24:27 …モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。

旧約聖書は私イエスについて書かれていると言われたのです。なかでも、詩篇第一篇は、主イエスの御生涯の縮図です。このことをまず覚えていただいて先に進んでまいりましょう。
ところで、この詩篇が語る「正しい人」「悪しき人」とはどんな人か気になりますが、主イエスに眼を注ぎ耳を傾ければ判ります。後ほど、丁寧にお話ししますが、「正しい人」とは、イエス・キリストであり、またイエスにより義と認められた人々。自分で自分を正しいと認める偽善者とは全く反対の人々です。他方、「悪しき人」とは主イエスから悔い改めを迫られる人々です。

1.「正しい人」
先週の説教でお話ししましたが、簡単におさらいしましょう。

1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。

この「さいわいな人」について主イエスは、公生涯の始まりに当たって明言しておられます。

マタイ4:10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。

また、山上の説教ではこう教えられました。

マタイ6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのもの(※私たちの必要)は、すべて添えて与えられるであろう。」
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。

「おきて」すなわち聖書の御言葉を喜び、いつも心にとめて日々を過ごす人がさいわいな人なのです。
これも主イエスの日常のお姿でした。

1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。

「流れのほとりに植えられた木」とは、選ばれ期待されて植えられた木のことです。「時が来ると実を結」びます。
私たちは、この3節の祝福を、私たちの願い事の“満願成就”と受け止めがちですが、そうとも限りません。究極的には、慈しみ深い父なる神の最善の御心が成ることが「時が来ると実を結」ぶです。
主イエスは、父なる神によってこの世に遣わされました。そして時が来て結んだ実とは、何だったでしょうか。

ヨハネ12:23-24 …「人の子が栄光を受ける時が来ました。/まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。

イエスが豊かな実を結んだのは、十字架上の死とよみがえりにおいてです。罪の贖いが成し遂げられ、福音が全世界へと宣べ伝えられ、主イエスに繋がって救われる一人一人によって豊かな実が結ばれ続けています。
私たちは神によってこの世に生を受けました。命の水の源なるイエスにブドウの木と枝の如くイエス繋がり、神から試錬という手入れを受け、時が来ると、さいわいな人、正しい人は神様が期待された実を結びます。

2.「悪しき者」
さて、次に「悪しき者」についてです。

1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。

ここでは、神と人に対する正しい態度を持たない人が、“悪の深みに落ちていく様について、「歩む」「立つ」「すわる」と記されています。
最初のうちは、神をないがしろにしても未だ常習と迄はなってはおらず、その場限りです。しかしやがて悪が常習となり、公然たる「罪人の道に立ち」ます。そして自分自身が悪の教師、誘惑者となり、「あざける者の座に着く」ことになります。こういう人について言われます。

イザヤ57:20-21 しかし悪しき者は波の荒い海のようだ。静まることができないで、その水はついに泥と汚物とを出す。/わが神は言われる、「よこしまな者には平安がない」と。

この様な人生を歩んだ人々は、聖書至る所に登場します。神に用いられた預言者たちに反抗し苦しめた人々、新約聖書ではバプテスマのヨハネを殺したヘロデ、イエスを裏切ったイスカリオテのユダ。主イエスから幾度となく「わざわいだ」と諫められた祭司長・律法学者たちに至っては、イエスを亡き者にしようと謀り、イエスから悔い改めを迫られても罪びとの道に立ち続け、とうとう十字架上のイエスをあざけったのです。しかし、「悪しき者」とはこう言った人々だけではありません。神によって御言葉の違反者と判断される罪人は全て神の御前に「悪しき者」です。

1:4 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。

これとそっくりな言葉を皆さまご存じかと思います。「奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。」です。
神の御前に悪しき人が「もみがらのようだ」と言われてますが、重さが軽いだけではなく、いのちを持たず本質的に無価値なのです。
「風の吹き去るもみがらのよう」な出来事の典型が、主イエスを十字架に付けた人々の悪事がイエスのよみがえりにより全て空しく潰えた事です。
悪しき者の末路は、聖書ばかりか世界史も証言します。ダビデ・ソロモン王朝の末裔(まつえい)たちは神に逆らい続けた挙げ句の果てに、アッスリヤ、バビロン、そして最後にローマにより、風の吹き去るもみがらのように滅び去りました。
そして、神はもう一度御業を為されます。

黙示録21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。

この時、「正しい者」は報われます。

1:5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。

5節後半では、悪しき者が正しい者たちの集会すなわち公的な礼拝に“立つ”、すなわち出席し続けることが出来ないと言われています。黙示録に次のようにあります。

黙示録21:27 しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。

「はいれない」のは、“入れて貰えない”という受け身の表現ではなく、“恥ずかしくて、辛くてじっと我慢しておれないので自分から入っていけない”のです。
礼拝は、御言葉に聞き、神の前で悔い改め、罪の赦しを確信し、讃美と感謝をもって主との交わりを深めていくところ、「正しい者のつどい」なのですから、神を否定し高ぶる者には耐えられないのです。
いずれにせよ、天の御国には悪しき者が一人も住んでいないので、キリスト者が天の御国にあこがれるのは当然です。
しかし、イエスの弟子たちの中にイスカリオテのユダがいたように、正しい者のつどいであるはずの地上の教会に、しばしば悪しき者が混じっていることについてスポルジョンはこう言ってます。「ここに神の忍耐と寛容、神の愛を見る。彼が正しい者の集いに立ち続けられるようにと、悔い改めの機会が与えられている」と。

3.「行き着くところ」
1:6 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。

信仰者の人生が「主に知られている」とはなんと幸いなことでしょう。
Iコリント8:3 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである。
とある様に、神を愛する人は神に知られ(愛されて)いるのです。
この「知る」とは、
ヨハネ10:14-15 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。/それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
牧者が羊に手をかけて面倒を見、見守り、養い、導く様に、神が私たちとの交わりを持って下さること、それが「その人は神に知られている」ということです。

4.結び
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。

実に素晴らしい祝福の御言葉です。
にも関わらず、私たちは現実の世界を見て、しばしば不安になり思い煩います。それは神が実を結ぶ時を来たらせて下さるのを待ちきれないときに起こって来ます。なぜ神を信頼して努め励みつつ待つことができないのでしょうか。それは神の約束の言葉があまりにも私たちの思いとかけ離れているように思えるからではないでしょうか。しかし、神は創造の神、すなわち無から有を生ぜしめるお方です。神が約束をなさるとき、神は御自身の可能性に立って約束をなさります。
ですから私たち人間にとってどれほど困難に思えようとも、神が意志されるとき、神は神御自身の力をもって事をなされます。そのことを信じて生きるところに私たちキリスト者の生き方があります。
神はその様な人を「正しい」と認め、「さいわいだ」と祝福して下さります。それゆえ私たちは、流れのほとりの木のごとく栄え、実を結ぶことができます。
先週と今日を通じて聴いてきました詩篇第一篇は、単なる教えや諭しではありません。主イエスは御生涯を通じて身をもって、御言葉の確かさを証して下さりました。
言い換えれば、詩篇第一篇は救い主イエス・キリストを預言し、福音書はこの詩篇の成就を証しているのです。
神が豊かな実を結ぶ時を来たらせて下さることを、神を信頼し努め励みつつ待ち望みましょう。

■この日の信仰告白
ウェストミンスター小教理問答 問23、27、28
■この日の讃美歌
 9番「ちからの主を ほめたたえまつれ」
 276番「ひかりとやみとの ゆきかうちまた」
 385番「うたがいまよいの やみよをついて」


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