2019年12月15日(日)聖日礼拝 「栄光の王を迎えよ!」

2019年12月15日(日)聖日礼拝 「栄光の王を迎えよ!」

ダビデの歌
24:1 地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。
24:2 主はその基を大海のうえにすえ、大川のうえに定められた。
24:3 主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。
24:4 手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、偽って誓わない者こそ、その人である。
24:5 このような人は主から祝福をうけ、その救の神から義をうける。
24:6 これこそ主を慕う者のやから、ヤコブの神の、み顔を求める者のやからである。〔セラ
24:7 門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。
24:8 栄光の王とはだれか。強く勇ましい主、戦いに勇ましい主である。
24:9 門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。
24:10 この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である。〔セラ
日本聖書協会『口語訳聖書』詩編 24篇1-10節

クリスマス礼拝を来週に控えて詩篇24篇?と怪訝に思われるかも知れませんが理由があります。この詩篇は、「栄光の王を迎えよ!」、「神がどんなに大きな事をして下さったか喜ぼう!」と歴史に残る「神の訪れ」を回顧して神を誉め讃えています。クリスマスも神の訪れであり「神がどんなに大きな事をして下さったか喜」ぶ出来事です。それでこの詩篇は待降節に読まれ続けるのです。しかし過去を回顧するだけではありません。「神の訪れ」は、聖書の言葉が語られ聞かれる時に起きています。

1.歴史的背景
詩篇24篇の歴史的背景は、今からおよそ3000年前、ダビデが攻め取り都に定めたエルサレムに、「神の箱」というシンボルを伴って、神がエルサレムに入ってこられた出来事だと考えられています。

 サムエル記下6:12-15 しかしダビデ王は、「主が神の箱のゆえに、オベデエドムの家とそのすべての所有を祝福されている」と聞き、ダビデは行って、喜びをもって、神の箱をオベデエドムの家からダビデの町にかき上った。/主の箱をかく者が六歩進んだ時、ダビデは牛と肥えた物を犠牲としてささげた。/そしてダビデは力をきわめて、主の箱の前で踊った。その時ダビデは亜麻布のエポデをつけていた。/こうしてダビデとイスラエルの全家とは、喜びの叫びと角笛の音をもって、神の箱をかき上った。

これは、ダビデ王の生涯で最大の喜びでした。
ところで、「神の箱」「主の箱」は契約の箱とも言われ、
 ヘブル9:4 そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあり、

とありますが、この契約の箱は忽然(こつぜん)と歴史から消したミステリアスな存在で、映画インディジョーンズ・シリーズの「失われたアーク」の題材にもなりました。
しかし、詩篇24篇の中心的テーマは契約の箱ではなく、「栄光の王を迎えよ!」です。そしてこの「栄光の王」はクリスマスの夜、神の御子イエス・キリストという人の形をとってこの世界に入ってこられました。それで詩篇24篇がクリスマスを控えた時期にしばしば読まれるのです。

2.全人類の神である主の到来
では詩篇24篇へと進みます。
 24:1 地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。
 24:2 主はその基を大海のうえにすえ、大川のうえに定められた。

クリスマスから千年も遡ったダビデ王の時代に、神がユダヤ人だけでなく全人類の神であると言われてます。世界で最初のクリスマスでも御使いはこう告げました。
 ルカ2:8-11(抜粋) …羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。/すると主の御使が現れ…言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。/きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。

ところが「世界と、そのなかに住む者とは主のもの」、つまり「主は全人類の神である」ことを、ユダヤ人たちは受け入れませんでした。主なる神は、選民である自分たちだけの神であるとし、「すべての民に与えられる大きな喜び」として来られた主イエスにも敵対し十字架に掛けてしまいました。また彼らは、ユダヤ人以外にも救いを宣べ伝えた使徒や弟子たちを激しく迫害しました。
しかしこんにち、クリスマスの夜に告げられた「すべての民に与えられる大きな喜び」は「地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者」に宣べ伝えられています。10年ほど前の統計でも、438もの言語に聖書全巻が翻訳され、部分的には2,454の言語に翻訳されてます。今年も数多の国々多様な民族により、栄光の王を迎えて礼拝がなされています。

3.どう迎え入れるか
続いて3節に進みます。
(1)礼拝こそ神を迎え入れるに相応しい
 24:3 主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。

いきなり「主の山に登るべき者はだれか」とありますが、山に籠もって厳しい修行を行う修験道(しゅげんどう)の様なことを言ってません。「主の山に登る」とは主を礼拝することですから、礼拝こそ神を喜び迎え入れるに相応しい、と言われているのです。神をお迎えするに相応しいのは、真心からの礼拝です。

(2)一人ひとりが問われている
ところで4節に進む前に、3節、4節、5節の主語も動詞も単数形であることに注目したいのです。つまり、礼拝の有り様(よう)や礼拝に集うことも大切ですが、一人ひとりの態度と心が肝心なのです。
 24:4-5 手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、偽って誓わない者こそ、その人である。/このような人は主から祝福をうけ、その救の神から義をうける。

新改訳聖書の翻訳は判りやすいです。
 詩24:4 【新改訳2017】 手がきよく心の澄んだ人 そのたましいをむなしいものに向けず 偽りの誓いをしない人。

この言葉を道徳的・法律的な善し悪しと考えると的外れになります。なぜなら、道徳・法律はこの世限りですが、聖書は永遠の祝福・命を教えているからです。

(3)まことの礼拝者
続く6節では、
 24:6 これこそ主を慕う者のやから、ヤコブの神の、み顔を求める者のやからである。〔セラ

ここでは「やから」、しばしば「不逞(ふてい)のやから」と言うように見下す場合に使われる言葉が出てきてますが、ここでは単に“人々の集い”とか“群れ”言う意味です。口語訳より後の聖書では「主を慕う人々」「神を求める者の一族」と翻訳されています。要するに、4-5節のような一人ひとりこそ神を慕い求める集い、礼拝に相応しい、と言われています。

(4)栄光の王を迎えよ!
7節からは、問答形式で神が誉め讃えられています。
 24:7-10 門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。/栄光の王とはだれか。強く勇ましい主、戦いに勇ましい主である。/門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。/この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である。

城門とは、しばしば外敵を防ぐため堅く閉じられます。そして、うなだれた頭の如くになります。しかし、「栄光の王が入ってこられる今こそ、城門を大きく高く開こう!」と、栄光の王を喜び迎えようと呼びかけられています。

結び 栄光の王を迎えよ!
 24:3-5 主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。/手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、偽って誓わない者こそ、その人である。/このような人は主から祝福をうけ、その救の神から義をうける。

主イエスも山上の説教の中で教えて下さいました。
 マタイ5:3-8 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。/悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。/柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。/義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。/心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。

クリスマスは、栄光の王の方から私たちに近づいて来て下さった恵みの時です。そして主イエスは今も私たち一人ひとりを呼んでおられます。
 黙示録3:20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。

 24:7 門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。

私たちも、きょう、心の門を、心の戸を大きく開いて、栄光の王を心の中に迎え入れる準備を整えてクリスマスを迎えようではありませんか。


■この日の信仰告白
 交読文6 詩23篇
■この日の讃美歌
 15番「我らのみかみは 天地すべます」
 111番「神の御子は 今宵しも」
 98番「あめにはさかえ み神にあれや」

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