「私の罪は私の前にある」

「私の罪は私の前にある」

聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌、これはダビデがバテセバに通った後預言者ナタンがきたときによんだもの
51:1 神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。
51:2 わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。
51:3 わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
51:4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。
51:5 見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。
51:6 見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。
日本聖書協会『口語訳聖書』詩編 51篇1~6節

現実には殆どないと思いますが、「あなたは罪を犯したことがありますか」と突然問われたら、不快に思うでしょう。ふと良心に痛みを感じることならあるのでしょう。しかし「これくらいのことは皆やっている、たいしたことではない」「誰にも気付かれていない」「やめようと思えばいつでもやめられる」と自分に言い聞かせて直ぐ忘れてしまいます。
しかし、罪は人を「呪縛する」恐ろしい力を持っています。罪を解決せず放置するなら、自分の罪を隠蔽させ、罪の感覚を麻痺させ、その人を罪の深みへと引きずり込み、滅びへと至らせます。
しかし、罪の呪縛から解放され救われる唯一の道があります。イエス・キリストに寄り頼むことです。

1.歴史的背景
百五十の詩篇には、詠われるに至った事情を示す表題を持つ物が少なくありません。今日の詩篇51篇もそうで、ダビデは如何にして罪から解放され救われたかが主題です。
(1)ダビデの最初の罪
聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌、これはダビデがバテセバに通った後預言者ナタンがきたときによんだもの
この時の出来事については、サムエル記下11章と12章に記されています。
隣国アンモンと戦うために、ダビデは軍の長ヨアブに命じて全軍を出陣させました。しかし、戦いは長引き、エルサレムにとどまったダビデのもとに勝利の知らせもないまま、夏になりました。
戦場から遠く離れ、けだるい平和があたりを支配するエルサレムの夕暮れ、ダビデが王宮の屋上をぶらぶら歩いていると、美しい女性の水浴姿に気づきます。この時、ほんの小さな隙に魔がさし、油断が油断を生んで罪を犯させる。彼は人を遣わし、彼女を招き一夜を共にする。バテセバの夫、ウリヤは勇士で、戦場に出ていた。

(2)罪の深みに墜ちて行くダビデ
一度罪を犯すと、それを隠そうと、さらに罪を犯す。しばらくして、バテセバの妊娠を知ったダビデは、姦淫の事実を覆い隠そうとする。ダビデは一計を案じた。戦況報告を口実にウリヤを戦線からもどし、家に帰して妻とやすませ、生まれる子供の父親をウリヤと思わせることだった。しかし、忠臣ウリヤはエルサレムにもどっても、仲間を戦線に残したまま、一人だけ家で夜を過ごすことは彼にはできなかった。
そこでダビデは、彼をもう一晩エルサレムにとどまらせ、酒を振る舞う。酒の力によって計略を達成させようと考えてのことだ。それでも、ウリヤは家に帰ろうとはしない。事がうまく運ばず、ダビデはあせって罪の隠ペいを画策し続けた。するかぎり、罪の支配はさらに強まり、
 ヤコブ1:15 欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。

ウリヤを殺害してまでも罪を隠そうとする。ダビデは前線にいる軍の長ヨアブに手紙を書く。その次の朝、ウリヤはその手紙を携えて戦場へと戻る。手紙には、ウリヤを戦死させる恐ろしい指示が書かれていた。

(3)罪に麻痺した良心
ヨアブは王命に従い、ウリヤを討ち死にさせる。ウリヤ戦死の報を受け、
 サムエル記下11:25 ダビデは使者に言った、「あなたはヨアブにこう言いなさい、『この事で心配することはない。つるぎはこれをも彼をも同じく滅ぼすからである。強く町を攻めて戦い、それを攻め落しなさい』と。そしてヨアブを励ましなさい」。

ダビデはこ言ったのです。「兵士である限り、いずれ剣に倒れる。それが兵士の宿命だ、遅かれ早かれウリヤも死んだのだから、気にするな」。これはヨアブに言った言葉というより、ウリヤの死を単純な戦死だ、と自分自身に言い聞かせたのです。あとは、未亡人となったバテセバを召し入れれば世間の目から隠しとおせる。ダビデは安堵の胸をなで下ろしたのです。良心がうずくことがあっても、しらを切りとおせばよい、心を悩ますこともない、と。

2.生きて力ある御言葉
(1)人は罪を隠そうとも神は見る
しかし、
 サムエル記下11:27 …しかしダビデがしたこの事は主を怒らせた。

ダビデが罪を隠せた、もう悩むことはない大丈夫と安心しても、神はすべてを見ておられた。神は預言者ナタンをダビデに送る。ナタンは巧みにたとえを使ってダビデをさとす。
 サムエル記下12:1 主はナタンをダビデにつかわされたので、彼はダビデの所にきて言った、「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。

ダビデはナタンにさとされ、自分の罪を認め罪を告白する。
サムエル記下12:13a ダビデはナタンに言った、「わたしは主に罪をおかしました」。…
このダビデの悔悛について今日の詩篇に詠われてます。
 51:1 神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。
 51:2 わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。
 51:3 わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
 51:5 見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。
 51:6 見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。

罪は根本的に神への反逆である。少しくらい反省し、ごめんなさいと言ってもそれで済ませることはできない。罪は自分の手で消すことはできない。このことに気付いたダビデは「あなたに、あなたに罪を犯した」と告白し、罪の赦しを受けようとしたのです。神の御前にくずおれ罪を告白する人、本物の深い罪の自覚を持つ心にだけ、赦しの恵み、きよめのあわれみが与えられます。これが、罪の深みから救いあげられる唯一の道です。

 サムエル記下12:13b …ナタンはダビデに言った、「主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。

(2)罪赦される喜び
告白に続いて、明るく、はずむような信仰が湧き上がってきています。
 51:7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。
 イザヤ1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。

とあるように、「雪」は神の御業による“きよさ”を表します。また、
 51:8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。

とありますが、「骨」は比喩的に人間の奥深い感情や精神を表します。ですから、8節には、私自身は打ち砕かれたけれど、神はもう一度喜びの声を上げるようにして下さる、との確信と希望が漲っています。

3.私たちへの奨励
(1)生きて働く神の言葉
聖書は、語り継がれてきた古い言葉ですが、聖書の読者が、自分への語りかけとして聞く時、それまでは気づかなかった新しいメッセージとなります。古くからの言葉が私に向けられた新しい言葉として語り始めます。ですから、聖書に記された過去の出来事が語り継がれるのは、現在のため、また未来の為でもあります。

(2)原罪の自覚
ダビデは。こう言いました。
 51:5 見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。

ここで自覚されている罪について、表題に「これはダビデがバテセバに通った後預言者ナタンがきたときによんだもの」とあるとおり、ダビデの不倫のことと読み取る人がおられます。しかし、その様な“他人事”として読める箇所ではありません。アウグスティヌスもルターもカルヴァンも、ここで自覚された罪とは人間の原罪を指していると言っています。パウロも言いました。「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ3:10)
原罪を持つ私たち誰もがダビデと似たり寄ったりの罪を繰り返す弱さを持っています。今も生きて働かれる神は私たちに問いかけられます。あなたはどうか。あなたは罪の深みに墜ちてはならない。私の前で悔い改め、罪の呪縛から解き放たれ救われなさい、と。

(3)罪を前に置き、救い主を前に見る
 51:3 わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。

罪を隠しとおそうとする人は、自分の罪を直視せずに済まそうとして、それを自分の背後に置きます。こうすれば、罪は自分には見えなくなります。天からは丸見えなんですが。

もう一つ「わたしの前」に見るべき事があります。詩篇16:8に記されたダビデの言葉が次のように引用されています。
 使徒2:25 ダビデはイエスについてこう言っている、/『わたしは常に目の前に主を見た。主は、わたしが動かされないため、/わたしの右にいて下さるからである。

「前に……見る」とは主人に従う弟子の姿で服従を意味します。〈右におられる〉とは主の助けを確信する弟子の姿です。主イエスは次のように呼ばわりました。
 ルカ9:23 それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。

イエスはいつも私たちの前におられるのです。福音書を読めば判ることですが、イエスはいつも一人一人の前に訪れて下さりました。ところが、人間の方がイエスに背を向け離れていく結果、イエスが見えなくなるのです。「罪を前に置き」、「常に目の前に主を見る」のは、私たちの罪を身代わりに負って十字架で死んで贖いを成し遂げて下さった御子イエス・キリストに寄り頼むことです。これこそ罪の呪縛から解放されて救われる道です。

■この日の信仰告白
ウェストミンスター小教理問答 問23、27、28
■この日の讃美歌
 6番「われら主をたたえまし」
 494番「わが行く道 いついかに」
 265番「世びとの友となりて」

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