クリスマス記念礼拝 「今日は救いの日」

クリスマス記念礼拝 「今日は救いの日」

詩篇118篇24-25節
118:24 これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。
118:25 主よ、どうぞわれらをお救いください。主よ、どうぞわれらを栄えさせてください。

ルカ2章8-14節
2:8 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。
2:9 すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。
2:10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
2:11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
2:12 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。
2:13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
2:14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。
日本聖書協会『口語訳聖書』詩編 118篇24-25節

1.今日という特別な日
 118:24 これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。

この箇所を新共同訳聖書は「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。」と訳しています。特別な日が「この日」「今日」と言われていることが良く判ります。「この日」「今日」とは、昨日、今日、明日といった日常的な時間の流れに“神が介入してこられた”日です。


2.神の訪れクリスマス 救いの始まり 大きな喜びの到来
新約聖書には世界で初めてクリスマスを迎えた時のことが記されています。
 ルカ2:10-11 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。/きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。

クリスマスは、神が、救い主イエス・キリストを私たちの世界に遣わされた特別な「今日」です。この日を起点として、イエス・キリストの十字架(罪の解決)と復活(罪の赦しと永遠の命の保証)、そして全世界に向けた福音宣教という神の御業が始まったのです。ですから、
 118:24 これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。

と詩篇記者が歌ったのは、神の御業の前触れです。


3.誰にも与えられる「今日」
この「今日」と言う救いと喜び日は、「すべての民に与えられる」(ルカ2:10)のです。いつでも誰にでも起こり得ます。
 黙示録3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
 マタイ28:20 …見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
救い主イエスの方から、私たちのところに来て下さっています。そのことに私たちが気付くかどうか、迎え入れるか閉め出すかの違いです。


4.「今日」を喜ぶ
イエスの訪れに気づいてイエスを迎えた入れ、大喜びする男性の様子が描かれた聖書箇所があります。
 ルカ19:5-9 イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。/そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。/人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った。/ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。/イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた…。

ここでイエスが「主」と呼ばれていますが、“主従関係における主人”ではなく、“契約を守って救って下さる方”の意味です。ザアカイは自分の所に、救いの契約を完成するイエスが来て下さった「今日」を喜び楽しんだのです。誰であっても、どの様な境遇に生きていようとも、主イエスを迎え入れる人には「大きな喜び」がもたらされます。


5.毎日が「今日」
旧約聖書にこの様な言葉が記されています。
 イザヤ40:8 草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。

ここで、思うのです。「神の言葉はとこしえに変ることはない」ことを信じていても、「草は枯れ、花はしぼむ」如く私たちは加齢や病気で衰えます。ですが、
 Ⅱコリント4:15-16 すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。/だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。

私たちが老いて外なる肉体は衰えても、私たちの内なる人格と霊魂は天の御国を受け継ぐに相応しく「日々新たにされていく」のです。私たちキリスト者にとっては毎日が「今日」なのです。ここに老いを生きる目的と喜びがあります。


6.人生最後の「今日」
ところで、主イエスを迎え入れる人にも拒む人にも、人生最後の「今日」が訪れます。それは肉体的・医学的な死です。
 伝道の書3:1-2,11 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、/中略/神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。

人の死は、神の御手によってこの世から取り去られることです。しかし私たち信仰者の死は、天の御国への“お引っ越し”です。
主イエスの十字架刑の刑場で、次のような言葉のやり取りがありました。
 ルカ23:42-43 …「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。/イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

私たちキリスト者にとっての死は、この主イエスの言葉通りです。


7.クリスマスを祝う私たち
今では、救いの御業が為される「今日」と言う日は、いつでも何処でも私たちに訪れます。その起点がクリスマスです。
 2:10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
 2:11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。

私たちは、この記念すべき日に、喜びを共にし分かち合いたいものです。


■この日の信仰告白
ウェストミンスター小教理問答 問20~22
■この日の讃美歌
 103番「牧人ひつじを 守れるその宵」
 106番「あら野のはてに 夕日は落ちて」
 109番「きよしこのよる 星はひかり」

添付ファイル (パスワード不要)

本記事にパスワード不要の添付ファイルはありません

添付ファイル (要パスワード)

本記事に要パスワードの添付ファイルはありません

2019年 メッセージ一覧

クリスマス記念礼拝 「今日は救いの日」

1.今日という特別な日 118:24 これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。この箇所を新共同訳聖書は「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。」と訳しています。特別な日…

2019年12月15日(日)聖日礼拝 「栄光の王を迎えよ!」

クリスマス礼拝を来週に控えて詩篇24篇?と怪訝に思われるかも知れませんが理由があります。この詩篇は、「栄光の王を迎えよ!」、「神がどんなに大きな事をして下さったか喜ぼう!」と歴史に残る「神の訪れ」を回顧し…

「信仰があってこそ」

詩篇12篇について、ラジオ伝道者としても著名な羽鳥明先生が、御自身の著書『今日の詩篇|明日の詩篇』の中でこう言っておられます。詩篇12篇は、社会的倫理が地に墜ちた時代に、神の救いを求めて叫ぶ祈りの詩です。…

「主の慈しみはとこしえに」

1.相反する二種類の信仰の存在信仰には二種類あると言われます。ひとつは、人間が神の恵みを引き出そうとする信仰、なんとかして神から恵みを得ようとする信仰です。日本古来のお百度参りや水垢離(みずごり、神仏に…

「私の罪は私の前にある」

現実には殆どないと思いますが、「あなたは罪を犯したことがありますか」と突然問われたら、不快に思うでしょう。ふと良心に痛みを感じることならあるのでしょう。しかし「これくらいのことは皆やっている、たいし…

「神の救いを待ち望む」

本題に入る前に、今日の詩篇を読み解く鍵となる聖書箇所を開いてみましょう。ローマ5:1-5 このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得…

「神はわれらの避け所」

1.さいわいな人(1)「いと近き助け」を見いだした人 46:1-3 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。/このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。/たといその…

「神を自分のどこに置くか」

この詩篇は、信仰に生きる人生とそうでない人生を比較しながら、神への全き信頼から来る平安と希望、喜びあふれる人生の素晴らしさを歌っています。1.「わたし」と「あなた」「わたし」と名乗る詩人が、危機が追い…

「なぜ国々は騒ぎ立ち」

この世には、あきれるほど多種多様の“敵”が存在します。覇権を争いあう国家・民族といった敵、人間関係における“敵”、生活上の困難、試練、誘惑等々。しかし、そのような“敵”がいかに騒ぎ立てようとも、私たちは神…

「悪しき者の末路」

大勢の方々に愛読される詩篇は個人的な信仰の歌にとどまりません。主イエスはこう言われました。ルカ24:27 …モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあか…

「正しい者の幸い」

全部で150篇からなる詩篇は、多くのキリスト者の座右の書として、愛し慕われ続けています。この詩篇には、聖書を読み解く鍵となる言葉がいくつかあります。そのひとつが、今日の詩篇一篇の主題にもなっている「正し…

「力と愛と分別の霊(2)」

「イエスは失敗もした」と言われたら、まさかと思ったり反発することでしょう。しかし、イエスが徹夜の祈りの後に選んだ十二弟子(ルカ6:12-13)は、三年間の教育訓練を受けたにもかかわらず、イスカリオテのユダは銀貨30枚でイエスを売り、他の弟子たちはゲッセマネの園でイエスを見捨てて逃げ去り、代表格のペテロは三度もイエスを否認しました。これらをイエスの失敗と言わずしてなんと言えるでしょうか?しかし、そうではありません。もし、十字架上で死んで墓に葬られたイエスがよみがえらず、昇天されず、聖霊を弟子たちに下すというペンテコステ(聖霊降臨)の出来事も起きなかったら、イエスは失敗したと言われても仕方ないでしょう。しかし事実、イエスはよみがえられ、天に昇られました。そしてペンテコステにおいてイエスは弟子たちに聖霊、すなわち、「力と愛と慎みの霊」を天から下し、この聖霊によってキリストは彼らを別人のように造り変えられたのです。そればかりではありません。「力と愛と慎みの霊」は私たちも造り変えて下さります。もう、この世と人とを恐れる必要は無く、キリストを否むことも福音を恥とすることもありません。