「信仰があってこそ」

「信仰があってこそ」

聖歌隊の指揮者によってシェミニテにあわせてうたわせたダビデの歌
12:1 主よ、お助けください。神を敬う人は絶え、忠信な者は人の子らのなかから消えうせました。
12:2 人はみなその隣り人に偽りを語り、へつらいのくちびると、ふたごころとをもって語る。
12:3 主はすべてのへつらいのくちびると、大きな事を語る舌とを断たれるように。
12:4 彼らは言う、「わたしたちは舌をもって勝を得よう、わたしたちのくちびるはわたしたちのものだ、だれがわたしたちの主人であるか」と。
12:5 主は言われる、「貧しい者がかすめられ、乏しい者が嘆くゆえに、わたしはいま立ちあがって、彼らをその慕い求める安全な所に置こう」と。
12:6 主のことばは清き言葉である。地に設けた炉で練り、七たびきよめた銀のようである。
12:7 主よ、われらを保ち、とこしえにこの人々から免れさせてください。
12:8 卑しい事が人の子のなかにあがめられている時、悪しき者はいたる所でほしいままに歩いています。
日本聖書協会『口語訳聖書』詩編 12篇1~-8節

詩篇12篇について、ラジオ伝道者としても著名な羽鳥明先生が、御自身の著書『今日の詩篇|明日の詩篇』の中でこう言っておられます。

詩篇12篇は、社会的倫理が地に墜ちた時代に、神の救いを求めて叫ぶ祈りの詩です。詩人は、二つの点をあげて、末の世の有様を訴えます。第一に、「卑しい事が人の子のなかにあがめられている時、悪しき者はいたる所でほしいままに歩いていまする」(8節)と言っています。現代も、卑しいこと汚いことが尊いことの如く平然と為されています。第二は、人々から誠実が消え、嘘、へつらい、二心が主導権を握っているような世相です。いつも本音と建て前が違う生き方です。しかし、誠心誠意ということが人と人の交わりの土台です。人間の幸福は、心と心が本当に結び合った交わりにあると言っても過言ではないでしょう。

さて、クリスマスの夜の出来事を聖書はこう記しています。
 ルカ2:8-11, 15 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。/すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。/御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。/きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。/〈中略〉/御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。
羊飼いたちが御使から主イエスの誕生を告げられた時、「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」

と語り合いました。もし、この様な仲間がいなかったなら、この後どうなったでしょうか。おそらく飼葉おけの中に寝かされているような赤ちゃんをわざわざ拝みには行かなかったことでしょう。
羊飼いたちがイエスに会い神を誉め讃えることが出来たのは、御使の言葉に驚きながらも聞く信仰と行動に移そうとする仲間がいたからこそではないでしょうか。

1.詩篇記者の祈り
(1)神への訴え
 12:1-2 主よ、お助けください。神を敬う人は絶え、忠信な者は人の子らのなかから消えうせました。/人はみなその隣り人に偽りを語り、へつらいのくちびると、ふたごころとをもって語る。

詩篇記者は私たちを代表して世の中を嘆いています。人はみな偽りへつらい卑屈になり相手の機嫌を取っている、すぐに嘘だと判るような甘い言葉を吐いて平気でいる。口先ではうまいことを言うが心の中では何を考えているかわからない、と。大変な世の中です。けれども詩篇記者は、嘆くだけでは何の解決にもなりません。

 12:3-4 主はすべてのへつらいのくちびると、大きな事を語る舌とを断たれるように。/彼らは言う、「わたしたちは舌をもって勝を得よう、わたしたちのくちびるはわたしたちのものだ、だれがわたしたちの主人であるか」と。

「神が俺たちの主人だと?とんでもない、この俺たちこそ世界を支配するのだ!」と言ってはばからない傲慢な悪しき世を嫌悪し、神の介入を詩人は祈ったのです。

(2)応答される神
 12:5 主は言われる、「貧しい者がかすめられ、乏しい者が嘆くゆえに、わたしはいま立ちあがって、彼らをその慕い求める安全な所に置こう」と。

詩篇記者の祈りに神が応えてます。彼の独白の様に感じられるかも知れませんが、“神が筆者に言葉を授け、筆者を用いて神も語る”、これが聖書の特徴です。

(3)御言葉への信頼
悪しき世の人々が語る「偽り、へつらい、ふたごころ」(2節)の言葉と鮮やかに対比され、神のことばは偽物ではなく信頼できる碓かな言葉であることが、純粋さと高価さの象徴である「銀」になぞらえられます。
 12:6 主のことばは清き言葉である。地に設けた炉で練り、七たびきよめた銀のようである。

そして、その神のみ言葉への期待が祈られます。
 12:7-8 主よ、われらを保ち、とこしえにこの人々から免れさせてください。/卑しい事が人の子のなかにあがめられている時、悪しき者はいたる所でほしいままに歩いています。

正しい者が苦しみ誘惑を受けている悪しき時代を憂うこと、それはいつの時代の信仰者とキリストの教会が置かれている立場です。

2.主イエスによって答えて下さる神
12:5 主は言われる、「貧しい者がかすめられ、乏しい者が嘆くゆえに、わたしはいま立ちあがって、彼らをその慕い求める安全な所に置こう」と。

ここも、神が詩篇記者に授けた”言葉です。この言葉はクリスマスに現実になりました。「卑しい事が人の子のなかにあがめられ、悪しき者はいたる所でほしいままに歩いている」(8節)と、詩篇記者が嘆いた暗黒の時代の真っ只中に、神は御子イエスによってこの世に来て下さりました。
主の御降誕に気付いたヘロデ王はイエスの暗殺を画策し、密かに博士たちを呼び寄せ、
 マタイ2:8 彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。

ヘロデの言動は、「わたしたちは舌をもって勝を得よう、わたしたちのくちびるはわたしたちのものだ、だれがわたしたちの主人であるか」(4節)との傲慢そのものです。
それにしても暴君ヘロデは哀れな王です。信仰のかけらすら持てなかったばかりか、ヘロデに忠言する臣下は一人も居ませんでした。信仰を持って語り合えた羊飼いたちとは真逆です。
このことは、主イエスの地上の御生涯でも同様でした。救いと癒やしを求めてイエスにすがる人々が大勢居ました。しかし当時の権力者たちは、イエスに聖書の教えを請うと見せかけ、へつらいと二心を持ってイエスを陥れようとしました。
 マタイ22:15-16 …どうかしてイエスを言葉のわなにかけようと、相談をした。/そして、彼らの弟子を、ヘロデ党の者たちと共に、イエスのもとにつかわして言わせた、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたであって、真理に基いて神の道を教え、また、人に分け隔てをしないで、だれをもはばかられないことを知っています。
しかし、主イエスは「地に設けた炉で練り、七たびきよめた銀のような清き言葉」(6節)により悪しき世に勝利され、欺瞞に欺かれることはありませんでした。また、
 12:7 主よ、われらを保ち、とこしえにこの人々から免れさせてください。

この祈りを主イエスも祈られました。

 ヨハネ17:14-15 わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。/わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。

そしてイエスは、実際に私たちを滅び行くこの世から免れさせ、天の御国に入れるため、私たちの罪を十字架上で身代わりに担い、
 Ⅰコリント15:57 …感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。

 12:7 主よ、われらを保ち、とこしえにこの人々から免れさせてください。
との詩篇の言葉は受肉前の主イエスのことばでもあり、主イエスは御自身の言葉を現実のものとするため世に来て下さいました。

3.イエスに従う私たち
詩篇12篇も、クリスマスも、傲慢でへつらい二心がある人々と、心砕かれ御言葉に聞く人々とのコントラストが鮮やかです。この世は今もなお、
 12:2 人はみなその隣り人に偽りを語り、へつらいのくちびると、ふたごころとをもって語る。

「卑しいこと」が横行し、人の尊厳を踏みにじる“獣”がいたる所でほしいままに歩いている悪しき時代です。しかし、私たちは見えるとことに惑わされては成りません。諦めてもなりません。神は、既にイエス・キリストを世に遣わし「立ち上がられた」のです。
 12:5-6 主は言われる、「貧しい者がかすめられ、乏しい者が嘆くゆえに、わたしはいま立ちあがって、彼らをその慕い求める安全な所に置こう」と。/主のことばは清き言葉である。地に設けた炉で練り、七たびきよめた銀のようである。

私たちは、この御言葉に本気で聞くかどうかが問われています。御言葉への信頼、信仰があってこそ、クリスマスを喜び祝えます。


■この日の信仰告白
 交読文1 詩1篇
■この日の讃美歌
 6番「われら主をたたえまし」
 119番「羊はねむれり 草の床に」
 112番「諸人こぞりて むかえまつれ」

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