「正しい者の幸い」

「正しい者の幸い」

1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
1:4 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
1:6 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。
日本聖書協会『口語訳聖書』詩編 1篇1~6節

全部で150篇からなる詩篇は、多くのキリスト者の座右の書として、愛し慕われ続けています。
この詩篇には、聖書を読み解く鍵となる言葉がいくつかあります。そのひとつが、今日の詩篇一篇の主題にもなっている「正しい者、悪しき者」です。何をしても栄えるとさえ言われる幸いな生き方、風に吹き飛ばされるもみがらのような人生とが対比されています。聖書は、人をこの二通りに分け、神に祝福された者と生きるように力強く励ましています。
また、イエス・キリストご自身、詩篇を愛され、今日の詩篇第一編は主イエスのご生涯の御生涯そのものと言うことが出来ます。今日と、来週の二回にわたって詩篇第一編の御言葉に聞きます

1.さいわいな人
1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。

詩篇は「さわいである」、「幸いなことよ。……その人」と祝福のことばで始まっています。主イエスの有名な山上の説教も、この祝福のことばで始まっていました。
詩篇第一編では、さいわいな人について、消極的側面と積極的側面の両面から記しています。
さいわいな人とは「悪者のはかりごとに歩まず、世俗的な人のずるさやたくらみから遠ざかります」。「御言葉に耳を貸し、主なる神の言葉に従います」。そして「神を敬い」ます。そう言う人が本当の幸せに生きているのだ、との祝福のことばで詩篇は始まっています。

私たちは先週まで足かけ5年、ルカによる福音書から御言葉に聞いてきましたが、そこには「さいわいな人」とはどの様な人かが描き出されていました。
もちろん主イエスが「さいわいな人」ですが、「さいわいな人」とは決して特別な人ではないことも記されています。イエスの弟子たちを思い出してみて下さい。彼らはみな私たちと同じように弱さを持ち誘惑を受け、霊的には鈍く頑なな心持ったただの人でした。しかし彼らが最後までイエスに従った結果、昇天されるイエスから祝福を受けるさいわいな人とされたのです。


2.さいわいの源
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。

(1)「主のおきて」
一般に「主」という言葉は主従関係で理解されますが、聖書での「主」は、約束に忠実で必ず実行される神の固有の呼び名です。このことは聖書に親しむうえでとても大切ですので覚えていて下さい。
また、「おきて」という言葉は、しばしば「律法」と訳されますが、本来の意味は神の「教え」です。
(2)「よろこび、昼も夜もそのおきてを思う」
人間の人生観は、その人の時間の使い方によく表れると言われます。特に、自分の自由になる時、ひとりでいる時、何を考え、何を読み、何をするかによってもよくわかります。
神を第一にし、神を喜ぶ生き方をする幸せな人の時間の過ごし方は、「昼も夜もそのおきて(御言葉)を思う」ことだとこの詩篇は言います。
これと同じことが、エジプトで奴隷となっていた人々が約束の地に導き入れられた直後にも教えられています。

ヨシュア1:8 この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。

御言葉を一日中携えるのです。昼は御言葉を読み、夜は昼間読んだ御言葉の瞑想を喜ぶのです。寝つかれない夜は、まぶたが閉じるまで御言葉を思い巡らすのを楽しみとする、順境の時には御言葉により感謝し、逆境の日には御言葉で自らを慰めるのです。
イエスは、御言葉との向き合い方、よみかたについて、こう教えて下さっています。

ヨハネ5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。

さいわいな人生の秘訣は、自分の好み任せの読み方を卒業して、イエス・キリストとの出逢いを求めて読むことです。そうしてこそ、

箴言3:5-6 心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。/すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

この御言葉が自分のものになります。

3.主イエスの御生涯
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。

この3節は、主イエスの御生涯そのものです。そして、イエスに繋がる私たちの人生への祝福です。
そのことを念頭に、一つ一つの言葉を味わってまいりましょう。
(1)「植えられた木」
「流れのほとりに植えられた木」とは、野性の木ではありません。財産としての価値を考慮し選んで植樹された常緑樹のことです。当然手入れもされます。そのことをイエスは言われました。

ヨハネ15:1-2 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。/わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。

この手入れこそ、キリスト者が受ける数々の試練です。神がその人を手入れされるのです。

ヘブル12:11 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。

(2)「流れのほとり」
木の生育に水は欠かせません。私たちも肉体的ばかりか霊的にも水は欠かせません。イエスは言われました。

ヨハネ4:14 …わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
ヨハネ7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

(3)「時が来ると実を結び」
説教の冒頭、「今日の詩篇第一編は主イエスのご生涯の御生涯そのもの」と申し上げましたが、
では、主イエスの場合、「時が来ると実を結」んだ出来事は何でしょうか?

ヨハネ12:23-24 すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。/まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。

そうです、十字架上の死とよみがえりです。
このことによって、罪の赦しと永遠の命の福音が全世界へと宣べ伝えられるようになったのです。

神のことばを喜びとし、それによって教えられている人には、逆境の時には忍耐が、試練の時には信頼が、順境の時にはきよい喜びが生じます。神の恵みを受けている人が実を結ぶのは当然のことですが、それにはふさわしい時があるのです。

3.結び
1:3 …その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
この御言葉は、この世の現実を嫌と言うほど知っている私たちが素直に受け入れがたい言葉のひとつかもしれません。しかし主イエスは、御自身の御生涯を通して、この約束が真実であることを明らかにして下さいました。
また、私たちも御言葉の約束に安んじて依り頼めることを、聖書には教えます。

Ⅰペテロ1:23-25 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。/「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。/しかし、主のことばは永遠に立つ」とあるからです。これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられたことばです。

それゆえ、「その葉もしぼまない」「なすところは皆栄える」このような約束が自分のものになります。
私たちは、自分の目で見るところで神の約束を疑ってはならないのです。聖書にこうあります。

ローマ8:23-25 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。/わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。/もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。

私たちに益となることが約束されているのを知ってはいても、試練に会って、あれこれと思いわずらっているうちに、約束されていることの正反対の結果であるように思えてくるのです。
しかし感謝なことに、神は私たちに、詩篇を通して主イエスの御生涯を鮮やかに見せてくださっています。
イエスに依り頼む者には約束のことばは真実です。「時が来ると実を結び…そのなすところは皆栄え」ます。

■この日の信仰告白
ウェストミンスター小教理問答 問23、27、28
■この日の讃美歌
 6番「われら主をたたえまし」
 494番「わが行く道 いついかに」
 265番「世びとの友となりて」

添付ファイル (パスワード不要)

本記事にパスワード不要の添付ファイルはありません

添付ファイル (要パスワード)

本記事に要パスワードの添付ファイルはありません

2019年 メッセージ一覧

クリスマス記念礼拝 「今日は救いの日」

1.今日という特別な日 118:24 これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。この箇所を新共同訳聖書は「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。」と訳しています。特別な日…

2019年12月15日(日)聖日礼拝 「栄光の王を迎えよ!」

クリスマス礼拝を来週に控えて詩篇24篇?と怪訝に思われるかも知れませんが理由があります。この詩篇は、「栄光の王を迎えよ!」、「神がどんなに大きな事をして下さったか喜ぼう!」と歴史に残る「神の訪れ」を回顧し…

「信仰があってこそ」

詩篇12篇について、ラジオ伝道者としても著名な羽鳥明先生が、御自身の著書『今日の詩篇|明日の詩篇』の中でこう言っておられます。詩篇12篇は、社会的倫理が地に墜ちた時代に、神の救いを求めて叫ぶ祈りの詩です。…

「主の慈しみはとこしえに」

1.相反する二種類の信仰の存在信仰には二種類あると言われます。ひとつは、人間が神の恵みを引き出そうとする信仰、なんとかして神から恵みを得ようとする信仰です。日本古来のお百度参りや水垢離(みずごり、神仏に…

「私の罪は私の前にある」

現実には殆どないと思いますが、「あなたは罪を犯したことがありますか」と突然問われたら、不快に思うでしょう。ふと良心に痛みを感じることならあるのでしょう。しかし「これくらいのことは皆やっている、たいし…

「神の救いを待ち望む」

本題に入る前に、今日の詩篇を読み解く鍵となる聖書箇所を開いてみましょう。ローマ5:1-5 このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得…

「神はわれらの避け所」

1.さいわいな人(1)「いと近き助け」を見いだした人 46:1-3 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。/このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。/たといその…

「神を自分のどこに置くか」

この詩篇は、信仰に生きる人生とそうでない人生を比較しながら、神への全き信頼から来る平安と希望、喜びあふれる人生の素晴らしさを歌っています。1.「わたし」と「あなた」「わたし」と名乗る詩人が、危機が追い…

「なぜ国々は騒ぎ立ち」

この世には、あきれるほど多種多様の“敵”が存在します。覇権を争いあう国家・民族といった敵、人間関係における“敵”、生活上の困難、試練、誘惑等々。しかし、そのような“敵”がいかに騒ぎ立てようとも、私たちは神…

「悪しき者の末路」

大勢の方々に愛読される詩篇は個人的な信仰の歌にとどまりません。主イエスはこう言われました。ルカ24:27 …モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあか…

「正しい者の幸い」

全部で150篇からなる詩篇は、多くのキリスト者の座右の書として、愛し慕われ続けています。この詩篇には、聖書を読み解く鍵となる言葉がいくつかあります。そのひとつが、今日の詩篇一篇の主題にもなっている「正し…

「力と愛と分別の霊(2)」

「イエスは失敗もした」と言われたら、まさかと思ったり反発することでしょう。しかし、イエスが徹夜の祈りの後に選んだ十二弟子(ルカ6:12-13)は、三年間の教育訓練を受けたにもかかわらず、イスカリオテのユダは銀貨30枚でイエスを売り、他の弟子たちはゲッセマネの園でイエスを見捨てて逃げ去り、代表格のペテロは三度もイエスを否認しました。これらをイエスの失敗と言わずしてなんと言えるでしょうか?しかし、そうではありません。もし、十字架上で死んで墓に葬られたイエスがよみがえらず、昇天されず、聖霊を弟子たちに下すというペンテコステ(聖霊降臨)の出来事も起きなかったら、イエスは失敗したと言われても仕方ないでしょう。しかし事実、イエスはよみがえられ、天に昇られました。そしてペンテコステにおいてイエスは弟子たちに聖霊、すなわち、「力と愛と慎みの霊」を天から下し、この聖霊によってキリストは彼らを別人のように造り変えられたのです。そればかりではありません。「力と愛と慎みの霊」は私たちも造り変えて下さります。もう、この世と人とを恐れる必要は無く、キリストを否むことも福音を恥とすることもありません。