6月は、ペンテコステにちなんだ聖書箇所からお話ししてますが、今日はその最終回です。
自分がクリスチャンであることを意識して口にしない、そんな事はないでしょうか。今日の聖書は、こう言っています。
1:8a だから、あなたは、わたしたちの主のあかしをすることや、わたしが主の囚人であることを、決して恥ずかしく思ってはならない。…
今日は、イエスと自分の先生パウロとを少なからず恥じていた弟子テモテを励ますべく書かれた書簡からお話します。
1.「恥ずかしく思ってはならない」 ~なぜ、恥じるのか
1:8a だから、あなたは、わたしたちの主のあかしをすることや、わたしが主の囚人であることを、決して恥ずかしく思ってはならない。…
「わたし(パウロ)が主の囚人であることを恥じるな」と言われても、なかなかピンと来ないかも知れません。
ここで恥じるなと言われている「主の囚人」とは、文字通り「イエス・キリストを宣べ伝えたが故に投獄されたパウロ」を指しましたが、後の時代には所謂イエス・キリストに“縛られている”人、クリスチャンを意味するようになりました。
一般に弟子とは、自分の先生が世間から喝采を受けるなら、師弟関係にある自分も誇らしく思います。主イエスが奇跡の業により人気絶頂だった時の弟子たちも鼻高々でした。
反対に、自分の先生が世間から疎(うと)んぜられ人には言えぬ処遇を受けるなら、自分が師弟関係にあることを恥じて隠すことでしょう。イエスの弟子たちが後者でした。ペテロに至っては、最後の晩餐の直後にゲッセマネで捉えられ“罪人の内に数えられた”イエスを恥じて、三度も「そんな人は知らない」と否認しました。
ですから、「主をあかしすること」や「主の囚人」であることを恥じるのは、イエスが十字架と言う極刑に処せられたからだとも言えます。このことを、もう少し掘り下げてみましょう。
1)十字架の捉え方
聖書を知らずとも主イエスが十字架上で刑死したことは世間に広く知られています。
Ⅰコリント1:18 十字架の言は、滅び行く者には愚か(※ばからしいこと)である…
と書かれている通り、イエスを師と仰ぎ救い主と信じてイエスに“縛られて”生きるクリスチャンを理解しがたいのです。このような世間にある私たちキリスト者もこのような感覚に少なからず影響を受けています。ですので、少なからぬクリスチャンは「主イエスを自分の救い主」、「あなたの救い主」と口にしにくいのではないでしょうか。
2)私たちの宗教意識
随分前の話しですが、「神仏は敬っても頼るものではない」とのアンケートに対して、371名中72%の青年が賛成したとのことです(講談社「『宮本武蔵』と日本人」)。自分の立場から出ようという意識が無い、自分が中心であり神はその自分に仕えるものと考える、そういった日本人の宗教意識がこのアンケート結果に如実に現れているそうです。
3)幻想への誘惑
試錬についてこう書かれています。
Ⅰコリント10:13 あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。
この世では試錬はつきものだと聖書は断言します。しかし私たちは、原因を回避出来れば困難に会わずに済むと考えます。確かにそういう一面もありますが考え直して下さい。仮に、ひとつ試錬・困難を回避出来ても新手が次々やって来るのが人生です。ですから原因を回避出来れば困難に会わずに済むとの考えは幻想に近いのです。「それに耐えられるように、のがれる道」を持つことが根本解決です。
その抜本的解決は神が差し出して下さっています。
1:7 …神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。
この「力と愛と分別の霊」、天からの恵みを授かることこそ抜本的解決です。
2.「恵みは明らかにされている」
私たちが「主のあかしをすること」や「主の囚人であること」を恥じるのは、そこからもたらされる気まずさや不利益を怖れるからではないでしょうか。
殉教を目前にしてパウロはこう言い切っています。
1:9-10a 神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召して下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく、神ご自身の計画に基き、また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜わっていた恵み、/そして今や、わたしたちの救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである。…
「イエス・キリストに縛られていることは恥ではなく、神の一方的「恵み」に与ることだ」と捉え直して神に望みを置くこと、ここから突き抜けた信仰の原動力が与えられます。
ローマ1:16 わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
私たち自身の力・能力で頑張るのではなく、神が授けて下さる力によるのです。
3.私たちを励ます神の御業
(1)力と愛と慎みとの霊を与える
1:7 …神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。
私たちの弱さをご存じの神は、私たちに真理を気付かせ私たちの価値感を一大転換して下さります。
ピリピ3:8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、
(2)既に死に勝利している
さらにパウロは読者に「死への勝利」に気付くよう促します。
1:10b …キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである。
その「福音」についてこう書かれています。
ローマ6:20-22 あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。/その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。/しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。
Ⅰコリント15:55, 57 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。…しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。
とあるとおりです。
しかしイエスはこうも言われました。
ルカ9:26 わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使との栄光のうちに現れて来るとき、その者を恥じるであろう。
厳しい言葉ですが、当然のこととは言えないでしょうか。
4.結びの奨励
最後に、神は私たちに「力と愛と分別の霊」(7節)を授けて下さっていることを覚えましょう。
1:12 そのためにまた、わたしはこのような苦しみを受けているが、それを恥としない。なぜなら、わたしは自分の信じてきたかたを知っており、またそのかたは、わたしにゆだねられているものを、かの日に至るまで守って下さることができると、確信しているからである。
私たち自身の力・能力に拠らず、主イエスを仰ぎ、主イエスが授けて下さる力と守りに拠り頼むのです。
■この日の信仰告白
ウエストミンスター小教理問答 問6~8、問11
■この日の讃美歌
讃美歌3番 「あめつちの御神をば」
讃美歌225番 「すべてのひとに のべつたえよ」
讃美歌380番 「たてよ、いざたて 主のつわもの」
