岡本先生と共に味わう讃美の力(22)「主の愛はとこしえまで」 The Steadfast Love of the Lord ~シンシナティ日本語教会主催

岡本先生と共に味わう讃美の力(22)「主の愛はとこしえまで」 The Steadfast Love of the Lord ~シンシナティ日本語教会主催

…実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は偉大です。日本聖書協会『口語訳聖書』哀歌 3章22~23節


■_はじめに
今回取り上げる讃美歌、「主の愛はとこしえまで」 The Steadfast Love of the Lord は、旧約聖書「哀歌」の3章22-23節だけをテキストにしたユニークな讃美歌です。

その「哀歌」ですが、旧約聖書全体の中でも最も悲しみに満ちた書物です。筆者エレミヤは、紀元前六世紀前半、バビロンにより破壊し尽くされたエルサレムとエルサレム神殿を目の当たりにして、「神は私たちを見捨てられた!」 と言わんばかりの深い悲しみを綴りました。 しかし、

 _†_ (Ⅱコリント7:10、新改訳2017)
神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
 _†_

と使徒パウロが記した、その 〈神のみこころに添った悲しみ〉 を哀歌は綴っています。
そして今回取り上げる讃美歌は、「聖書の中で最も慰めと励ましに満ちた箇所の一つ」と言われる3章22-23節だけをテキストにしています。御言葉には活きて働く力があります。それ故でしょう、この讃美歌は、悲痛極まり絶望の淵に沈む人々を慰め励まし、確かな希望と生きる勇気を与えてくれます。

なお、ネット上の讃美動画の中には、この聖句に(人の)言葉を付加した結果、本来の「哀歌」のメッセージがぼやけてしまったものが散見されます。


■_1.預言者が語ったこと

ところで、この「哀歌」は、聖書66巻中の預言書に分類されます。預言について使徒ペテロはこう解説しています。

 _†_ (Ⅱペテロ1:21、新改訳2017 )
預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。
 _†_

預言者は神の言葉を預かり遣わされ、人々を罪と不信仰から立ち返らせるために
(1)もしあなたたちが罪と不信仰を悔い改めなければ何が起るか、
(2)神は、あなた方を救うおうと願っておられる、全き救いを待ち望みなさい
と語ったのです。


■_2.預言者エレミヤの召命と預言
その様な預言者の一人がエレミヤで、預言者イザヤから凡そ100年後に遣わされ、BC600年を挟む凡そ50年間活躍しました。彼の召命についてこう書かれています。

 _†_ (エレミヤ1:9、新改訳2017)
そのとき【主】は御手を伸ばし、私の口に触れられた。【主】は私に言われた。「見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。
 _†_

そのエレミヤが語った裁きと救いの望みを、一例としてエレミヤ23章1‐8節を要約してご紹介します。

(1-2節) 神は悪を為す政治的・宗教的指導者たちに語りかけて言われました。「あなたたちを罰する」と。
(3-4節) しかし神は、神に忠実な者を残して国を回復させ、新しい指導者を立てる。
(5-6節) そして終わりの日については、
 _†_(エレミヤ23:5-6、新改訳2017)
見よ、その時代が来る。──【主】のことば──そのとき、わたしはダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この地に公正と義を行う。 …『【主】は私たちの義』。それが、彼の呼ばれる名である。
 _†_
やがて来られる「牧者」の名は、「主は私たちの正義」であると、イエス・キリストを指し示しています。
(7-8節) 後代の人々は、神がモーセを立ててエジプト脱出を成し遂げて下さったことばかりか、捕囚地バビロンからの帰還・回復も神の御業であること(第二の出エジプト)を認めるようになる。

この様にエレミヤは、「出エジプトの奇跡とバビロンからの解放という二つの“出エジプト”は、主イエスによる罪と死の支配からの解放(第三の出エジプト)の雛形(予型)である」と預言したのです。

 _†_(エレミヤ31:31-34 抜粋、新改訳2017)
見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしは…新しい契約を結ぶ。/その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。…/…わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。/…わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
 _†_

このようにエレミヤは、やがて来られる「牧者」(イエス)によって、神とその民との間に新しい契約がもたらされること、新約聖書の時代の到来を告げ知らせました。
しかしエレミヤは、自分が取り次いだ「神があなたたちを罰する」との御言葉の成就を目の当たりにし、「哀歌」を綴ったのです。


■_3.哀歌 3:22-23
 _†_
3:22 …実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。
3:23 それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。 (哀歌 3:22-23、新改訳2017)
 _†_

未曾有(みぞう)の困難に直面し、人々が絶望だけで終るような時、エレミヤは主なる神を仰ぎ求めました。
自分の力で必ず再出発してやる!というような力みも見られません。

〈主のあわれみが尽きない〉
エレミヤは何を根拠にして〈主のあわれみが尽きない〉と告白できたのでしょうか? それは、
(1)エジプト脱出の歴史的事実 (第一の出エジプト)。
(2)エレミヤが直接神から与えられていた約束の言葉。
(3)エレミヤより約100年前のイザヤによる預言。一例として、

 _†_ (イザヤ10:20-21、新改訳2017)
その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家の逃れの者は、もう二度と自分を打つ者に頼らず、イスラエルの聖なる方、【主】に真実をもって頼る。/残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。
 _†_

これらは旧約時代の信仰者に共通することで、彼らの信仰は徹頭徹尾神の言葉(約束、契約)と歴史的事実を土台にしていました。もちろん世々のキリスト者も同様です。

〈それは朝ごとに新しい〉
そこで次に、とっても大切なことをお尋ねします。〈それは朝ごとに新しい〉の〈それ〉とは何でしょう?
〈それ〉は、「新しい一日の始まり、朝を迎える喜び感謝」だと解される向きもありますが、その喜び感謝の根底に何があるのでしょうか。
出エジプトの道中、朝毎に神の民に与えられた神の恵みを思い起こして下さい。

そうです、マナです。
旧約聖書を一箇所開いてみましょう。

 _†_(出エジプト記16:1-3、新改訳2017)
イスラエルの全会衆はエリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入った。/そのとき、イスラエルの全会衆は、この荒野でモーセとアロンに向かって不平を言った。/イスラエルの子らは彼らに言った。「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは【主】の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」
 _†_

忘恩不義も甚だしい輩たちの暴言ですが、その時、

 _†_(出エジプト記16:4、新改訳2017)
【主】はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである
 _†_(出エジプト記16:13-15、新改訳2017)
…朝になると、宿営の周り一面に露が降りた。/その一面の露が消えると、見よ、荒野の面には薄く細かいもの、地に降りた霜のような細かいものがあった。/イスラエルの子らはこれを見て、「これは何だろう」と言い合った。それが何なのかを知らなかったからであった。モーセは彼らに言った。「これは【主】があなたがたに食物として下さったパンだ。
 _†_

マナがイスラエルの大群衆の必要を満たすのに十分であり,必要に応じて保存することもでき,また40年間も供給され続けたことは,神に対する信仰の礎となり,代々にわたって語り継がれたのです。


■_4.主イエスと、彼に於ける預言の成就
主イエスはエレミヤ同様、不信仰の極みの(時が満ちた)時代に遣わされ公生涯を始められ、出エジプト道中に荒野で与えられたマナについて、こう言われました。

 _†_(ヨハネ6:31-35、新改訳2017)
私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」/それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。/神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」/そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」/イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
 _†_

そして、主イエスは神の宮エルサレム神殿で、まさに起こらんとしている神の御業を教えるべく“宮きよめ”をされました。

 _†_(ヨハネ2:18-22、新改訳2017)
すると、ユダヤ人たちがイエスに対して言った。「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」/イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」/そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」/しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。/それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。
 _†_

しかし民は、エレミヤをはじめとした預言者たちに聞かなかったのと同様、イエスにも耳を傾けませんでした。こうして、再びエルサレムが裁かれる時が近づきました。しかしその裁きをイエスが見るのでは無く、イエスご自身が一身に引き受けられたことで、神の義と愛が十字架上で高々と挙げられたのです。これをイザヤは預言していました。

 _†_(イザヤ53:2-5、新改訳2017)
彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。/彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。/まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。/しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
 _†_

神の御子ご自身が人の罪を一身に負い身代わりに裁かれ贖いを成し遂げられたことで、罪と死の支配からの解放(いわゆる第三の出エジプト)が始まったのです。

主イエスは、死んで墓に葬られて三日目によみがえられましたが、よみがえりの朝、

 ~ ♪_†_ ♪ ~
The steadfast love of the Lord never ceases; his mercies never come to an end;
   ※steadfast : 忠実な、
   ※ ceases : (続いていることが)終わる、途絶える
they are new every morning; great is your faithfulness. (ESV)

実に、私は滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。
それは朝ごとに新しい。父よ、あなたの真実は偉大です。
 ~ ♪_†_ ♪ ~

この聖句が主イエスの口から発せられたかも知れませんね。
確かなことは、イザヤ、エレミヤ等の預言者を通して語られた神の言葉の真実さが主イエスによって証明されたことです。

ところで、少々余談になりますが、哀歌では〈his mercies never come to an end〉、「主のあわれみが尽きない、終わることが決して無い」とあるのですが、十字架上で発せられた主イエスの言葉を口語訳聖書は次の様に訳してます。

 _†_(ヨハネ19:28, 19:30、口語訳)
19:28 そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。
19:30 すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。
 _†_

「あれ、イエス様は『終わった』と言われてるけど?」と、矛盾を感じさせかねない訳になっていて読み方に注意が必要です。口語訳聖書以外は「終った」ではなく「完了した」「成し遂げられた」と原意をストレートに訳出しています。

 _†_ (ヨハネ19:28, 19:30、新改訳2017)
19:28 それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
19:30 イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。
 _†_


■_5.結び 私たちへのメッセージ
旧約聖書の時代の信仰者たちが拠り所としたのは、
(1)エジプト脱出、バビロン捕囚からの解放 (第一、第二の出エジプト)
(2)約束の地に至る道中朝毎にマナを与えられ養われたこと
(3)預言者が語った「神から与えられた約束の言葉」、預言。
そして、新約の時代に生きる信仰者は、イエス・キリストの十字架と復活をも拠り所としています。

思い返せば、私たちはこれまで幾たび苦難に打ちのめされ、悲しみと苦しみに明け暮れしたことでしょうか。
それでも私たちは生かされて朝を迎え、今日に至っています。

 ~ ♪_†_ ♪ ~
The steadfast love of the Lord never ceases; his mercies never come to an end;
they are new every morning; great is your faithfulness.
実に、私は滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。
それは朝ごとに新しい。父よ、あなたの真実は偉大です。
 ~ ♪_†_ ♪ ~

ウクライナばかりか世界中数多の人々が、兄姉・子どもたちが、言葉を失って、ただ立ちすくむ様な困難と緊張の中にあります。また私たちも、いつそのような困難に遭遇するか判らない、そのような不安に襲われることもあるでしょう。

しかし、怖れてはなりません。主なる神は私たち私たちの名を天にあるいのちの書に記し下さっていますし、御国へと召して下さる日まで、「まことの、いのちのパン」により日々養って下さいます。

 ~ ♪_†_ ♪ ~
The steadfast love of the Lord never ceases; his mercies never come to an end;
they are new every morning; great is your faithfulness.
実に、私は滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。
それは朝ごとに新しい。父よ、あなたの真実は偉大です。
 ~ ♪_†_ ♪ ~

朝の目覚め毎に、主をほめたたえましょう。
そして、私たちが御国によみがえらせていただく時は、新しい讃美となって神を誉め讃えるのです。

アーメン

2023年 メッセージ一覧

岡本牧師と共に味わう讃美の力 (第28回) 「羊は眠れり」Sheep Fast Asleep~シンシナティ日本語教会主催

日本時間12月22日(金)午前10時~11時、アメリカ東部時間12月21日(木)午後8時~9時、「岡本牧師と共に味わう讃美の力」集会をオンラインで開催しました。

岡本牧師と共に味わう讃美の力 (第27回) 「キリストにはかえられません」I'd rather have Jesus~シンシナティ日本語教会主催

日本時間11月17日(金)午前10時~11時、アメリカ東部時間11月16日(木)午後8時~9時、「岡本牧師と共に味わう讃美の力」集会をオンラインで開催しました。

岡本牧師と共に味わう讃美の力 (第26回) 「父の神の真実」、Great is Thy Faithfulness ~シンシナティ日本語教会主催

 ~ ♪ ~ 父の神の真実は とこしえまで変わらず慈しみと憐れみは 尽きることがありません素晴らしい主 その真実は 朝ごとに新しく深い恵み知らされて 讃美します 主の御名 ~ ♪ ~ 歌い始めると、私たちは深い慰め、平安に包み込まれる、そういった不思議な魅力ある讃美歌です。

岡本牧師と共に味わう讃美の力(第25回)「心を高く上げよう」Lift Up Your Hearts (Sursum Corda)~シンシナティ日本語教会主催

歌声が聞こえます。 ~ ♪ ~ こころを高くあげよう主のみ声にしたがい、ただ主のみを見あげて、こころを高くあげよう。霧のようなうれいも、やみのような恐れも、みなうしろに投げすて、こころを高くあげよう。 ~ ♪ ~ 今あなたが、どのような状況にあろうとも、「こころを高くあげよう」、「(神様から力をいただいて)元気を出そう」と。

岡本先生と共に味わう讃美の力(24) ~ 讃美歌391番 「ナルドの壺」 (シンシナティ日本語教会)

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岡本先生と共に味わう讃美の力(23)「さかえにみちたる」 Glorious Things of Thee are Spoken~シンシナティ日本語教会主催

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