岡本先生と共に味わう讃美の力(19) 「さかえの主イエスの」 (When I Survey the Wondrous Cross、讃美歌142番)
しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。/それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。…日本聖書協会『口語訳聖書』ピリピ人への手紙 3章8~9節
■1.パウロの説教を歌う
今回の讃美歌「栄えの主イェスの」ですが、由木康牧師による邦訳歌詞(讃美歌142番、1954年版)は、日本人の感性に強く訴えるとても美しいものです。
ところが、原曲歌詞(資料2-2)と引用聖句(資料3)を見ると、パウロの説教が歌われていることに気付かされます。原曲歌詞には、新約聖書全27巻中13巻を占めるパウロ書簡に記されたパウロ神学がぎゅっと濃縮されているのです。原曲全5節から説教すれば、おそらく数ヶ月は要することでしょう。ですので、この讃美歌はある意味大変な讃美歌です。
そのパウロの説教の特徴ですが、原曲歌詞とのマッチングを考慮して次の様に要約出来るでしょう。
(1)旧約聖書を踏まえ、御子イエスによる贖い、神の愛が具体的に現された神の御業に焦点を当てています
(2)このキリストを信じる信仰により義と認められた者は、御霊によりキリストとの交わりの内に生活しよう!
(3)キリストの再臨による救いの完成を待ち望みながら「キリストにあって」行動し生きようではないか!
(4)キリストへの完全なコミットメント(責任をもって自分が関わることを明言・約束すること)を奨励しています。
また、この讃美歌には、作詞者アイザック・ワォッツの深い信仰と、作詞者としての驚嘆すべき力量が見事に発揮されています。それは、パウロの説教の諸特徴を活かしたまま構造化していることです。
ワォッツは、まず十字架上の主イエスを歌う3節を全体の中心に据え、作詞者自身に、讃美する一人ひとりに「見よ」「見なさい」と呼びかけ、一人ひとりを〈目の前に描き出された〉(⑦ガラテヤ3:1)十字架上のイエスに向き合わせるのです。
そしてその前後に、“絵画”を際立たせる二重の額縁の如く1-2節と4-5節とを配置しています。さらにもう一つ。そこでは、「I、my、me、mine」と繰り返し繰り返し歌います。
実にこの讃美歌は、一人ひとりが血潮したたる主イエスの十字架を囲んで臨場し、各々(自分自身)の信仰告白、キリストへのコミットメントをもって神を礼拝し誉め讃える、その情景を歌っています。この讃美歌はパウロによる説教であり、私たちの御言葉への応答、信仰告白、神讃美です。
それでは、原曲歌詞に導かれ聖書を探訪して参りましょう。
■2.聖書探訪
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♪ 歌詞(原曲)1節 ♪
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あの驚くべき十字架に私が思いを馳せるとき
その上で、栄光の主は死んでくださったのだが、
私の最も豊かな利益も、損と見なさざるを得ない。
さらに私のすべての誇りを侮蔑するしかない。
一節はプロローグのごとく、ズバリこの聖句を歌っています。
① ピリピ3:7-8
3:7 しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。…
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♪ 歌詞(原曲)2節前半 ♪
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主よ、私が誇りにすることを禁じてください
私の神であるキリストの死以外のことを。
まず、2節の前半ですが、
② ガラテヤ6:14
6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。
③ Ⅰコリント1:30-31
1:30 しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。
1:31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
この1:31で、パウロはエレミヤ書を引用して「主イエスと十字架上の贖い」は、
・預言者エレミヤを通して預言されていた
・救いの計画の成就であった
と教えています。そのエレミヤ書にはこう記されています。
④ エレミヤ9:23-24
9:23 ──【主】はこう言われる──知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな。
9:24 誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは【主】であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。──【主】のことば。』」
この御言葉に信頼し誠実に生きたパウロなればこそ、〈私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています〉(①ピリピ3:8)と証しし得たのです。
2節後半に進みますと、
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♪ 歌詞(原曲)2節後半 ♪
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この心を惹きつけて止まないすべての空しいものを
主の血潮に犠牲としてお献げしますから。
「この心を惹きつけて止まないすべての空しいもの」が何かは、引用聖句④エレミヤ9:23-24が言っています。また、「主の血潮に犠牲としてお献げ」するとはどういう行為かは、次の聖句により解釈できます。
⑤ ローマ12:1
12:1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
⑥ ヘブル13:15
13:15 それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。
更に、冒頭ご紹介した「パウロ神学の中心的特徴」によって「主の血潮に犠牲としてお献げします」の意味が分かります。
(2)…御霊によりキリストとの交わりの内に生活する
(3)…「キリストにあって」行動し生きる
(4)キリストへの完全なコミットメント(責任もって自分が関わることを明言・約束すること)
こう言うことです。
ちょっと余談になりますが、私事で恐縮です。実は、〈お献げします〉との言葉には「自分が汗水流し精魂込めて築きあげたモノを手放す」ような響きを時々感じてしまう私なのです。その様な時は、「今有る生活も、家族や孫たちも、自分のいのちすらも神様からの賜物だ」、「神様からお預かりしているモノを、神様の御心・御用に応じて神様にお返しするんだ」と自分に言い聞かせています。
そもそも、主イエスの御生涯がそのお手本だったわけですね。主イエスは、私たちを贖い救うために、ご自身の栄光もいのちも捧げて、それを獲得されたお方です。
では、本題に戻り、讃美歌の中核部分へと進んで参ります。
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♪ 歌詞(原曲)3節 ♪
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見なさい。主の御頭(かしら)、御手、御足から
悲しみと愛が混ざり合って流れ落ちるのを。
そのような愛と悲しみが出会ったことがあったか
また、茨(いばら)がこのような尊い冠となったことがあったか。
パウロはガラテヤ教会の信徒たちに向かって、
⑦ ガラテヤ3:1
ガラテヤ3:1 ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。
こう言いました。
この三節の歌い出し「見よ」「見なさい」によって、私たちも目の前の絵を見るかの様に十字架上のイエスに向き合わされます。
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♪ 歌詞(原曲)4節 ♪
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死にゆく主の赤い血潮は礼服のように
木の上の主のみからだに広がっている。
それで私は世に対して死んでいる。
また世のすべては私に対して死んでいる。
この四節は額縁に相当する箇所ですが、主イエスの十字架と死、罪の贖いによって私たちにもたらされた一大変化を歌っています。
②(再) ガラテヤ6:14
6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。
この讃美歌4節後半は、このパウロの説教を歌っているのですが、〈世は私に対して死に、私も世に対して死にました〉の意味を、三段論法を用いて説明します。
(1)主イエスの十字架上の死は私の身代わりでした。ですから、主イエスが死なれたことで私も死にました。
(2)〈死〉によって主イエスとこの世との関係に決定的な変化が生じました。すなわち、イエスに対してこの世は何の影響も及ぼすことが出来なくなった、全く無力になったのです。
(3)主イエスの死により私も死んだのですから、この世は私に対して全く無力のものとなった、この世は私に対して何の影響も及ぼすことが出来なくなったのです。
私たちキリスト者は、なおこの世に生きていますが、既に国籍は天に移され永遠のいのちに生かされています。この厳粛な事実をこの世の如何なる力も覆すことは出来ず、私たちの未来に何の影響も及ぼすことが出来ないのです。
このことを使徒ペテロもこう記しています。
⑧ Ⅰペテロ2:24
2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
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♪ 歌詞(原曲)5節 ♪
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たとい全世界が私のものであったとしても
それは主への贈り物として小さすぎる。
このように驚くべき聖なる愛は、
私のたましいと生涯のすべての応答を求める
この歌詞は、信仰により義とされた喜びと驚きを歌っています。
ここで一カ所、ルカ福音書7章に記された〈罪深い〉女性の罪を赦す主イエスの言葉に聴きましょう。
⑩ ルカ7:47-48
7:47 ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」
7:48 そして彼女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。
パウロはきっと、伝道旅行の同行者ルカからこの事を聞いて生涯忘れなかったことでしょう。パウロは主イエスの「驚くべき聖なる愛」を証してこう語りました。
⑨ Ⅰテモテ1:15-16
1:15 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
1:16 しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。
この讃美歌は、「私のたましいと生涯のすべての応答を求める」と歌って締めくくられます。ここにもパウロの切なる願いが歌われています。
⑪ Ⅱコリント1:12
1:12 私たちが誇りとすること、私たちの良心が証ししていることは、私たちがこの世において、特にあなたがたに対して、神から来る純真さと誠実さをもって、肉的な知恵によらず、神の恵みによって行動してきたということです。
■3.むすび
この讃美歌3節で、
~ ♪ ~ 3節 ~ ♪ ~
見なさい。主の御頭(かしら)、御手、御足から
悲しみと愛が混ざり合って流れ落ちるのを。
そのような愛と悲しみが出会ったことがあったか
また、茨(いばら)がこのような尊い冠となったことがあったか。
~ ♪ ~ ♪ ~
と歌われる「悲しみと愛」がどの様なものかは聖書(福音書)をお読みいただきたいのですが、
悲しみと愛が混ざり合って流れ落ちるのを。
そのような愛と悲しみが出会ったことがあったか
この歌詞は、日々〈自分の十字架を負って〉主イエスに従い行く“私自身”をも歌っています。
十字架で現された神の愛を知っていても、信仰の故に大きな犠牲を払うのを惜しむ悲しい私がいます。愛する者の死は主の御許に召されること、そう判っていても耐えがたく悲しくなる私がいます。
その様な愛と悲しみが混ざり合う私たちに、主の愛が注がれています。
主イエスを愛していながら主に従いきれず、罪を犯し主を裏切ってしまう自分がいます。世の中や自分が置かれた現実を見て動揺し主を疑う不甲斐無い私がいます。その様な私たちに主は言われます、「あなたの罪は赦されています」と。
この讃美歌が「見よ」「見なさい」と指し示す主の十字架はこうです。
●主イエスの十字架は、私たちを地上でも天の御国でも、まことの礼拝に与らせる為のものですよ。
●主イエスの十字架は、永久の希望への入り口ですよ。十字架上で死んで貴方の贖いを成し遂げられたイエスはよみがえらされたではないですか。あなたもよみがえらされます、この世の何ものもそれを妨げることは出来ません。この世の現実が如何様であろうとも、キリストの再臨による救いの完成を待ち望みながら「キリストにあって」一緒に生きて行きましょう。
この讃美歌は、御言葉と相まって私たち一人ひとりを慰め励ましてくれます。