岡本先生と共に味わう讃美の力 (Special) 讃美歌521番「雪よりも白く」 WHITER THAN SNOW
さあ、来たれ。論じ合おう。──【主】は言われる──たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。日本聖書協会『口語訳聖書』イザヤ書 1章18節
□ 中富良野から十勝岳連峰を望む □
■1.はじめに
今回(2023年2月)、白銀の“別世界”に自分を置きたく、私にとって凡そ半世紀ぶりに厳寒の北海道を訪れました。空路函館入りすると、確かにそこは別世界、歩くだけでも「雪の白さ」、現実の厳しさを思い知らされました。また訪れた各地では、生活インフラ、日常生活の営み、観光ポイントへのアクセスを「雪の白さ」から守る為に、多くの方々が黙々と働いておられました。
□ 根室本線 島ノ下駅跡 □
列車の窓近くにまで降り積もった雪原に切り開かれたローカル線、そこをひた走る列車の走行音は、異様なまでの静かさ。カーナビ頼みで車を走らせても、音も無く降り積もって轍(わだち)を覆い隠す雪の白さの怖しいこと。何人も抗えない圧倒的な「雪の白さ」で覆われた世界を旅する私は、大自然への畏怖の念に震え上がりました。
□ 美瑛町 ファームズ千代田 □
■2.「雪の白さ」を歌う合唱曲
ここからは、「雪の白さ」を歌う有名な合唱曲と広く愛唱される讃美歌についてお話したいのです。
まず、大学生時代コーラス部で歌った合唱組曲「心の四季 ~雪の日に」(資料2)です。
〈♪ どこに純白な心などあろう どこに汚(よご)れぬ雪などあろう ♪〉
是非、ここで歌詞(資料2)を手に下記演奏(4' 20")をお聞き下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=EtQqLBcyWqE
当時の私は、「この歌詞は聖書と随分違うなあ…」と言う誤った先入観を抱いていました。しかし聖書の御言葉を語る者とせられた今、「純粋に生きようとする人の機微と葛藤を、私たちの現実を歌っている」ことに気づき深い感銘を受けています。
特に第六曲「雪の日に」は、心の汚れへの煩悶とジレンマ、「うわべの白さ」を拭い切れないことへの葛藤と敗北感を歌っています。この曲が大勢の人々の心を捉え、共感の輪が広がり長く歌い継がれているのも頷けます。
□ 札幌雪まつり 「白亜紀の北海道」□
https://www.snowfes.com/sites/odori/
「雪の日に」で歌われていることは私たちの現実です。だからこそ神は私たちを招いて言われます。
①イザヤ1:18
さあ、来たれ。論じ合おう。──【主】は言われる──たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
■3.「雪の白さ」を歌う讃美歌
もう一つの曲は、讃美歌521番「イェスよ心にやどりて」です。(資料1参照)
〈♪ 汚れにそみしこの身を 雪より白くしたまえ 我がつみをあらいて 雪より白くしたまえ ♪〉
ロマンチックな歌詞と感じられるかも知れませんが、詩篇51:7を引用して、北海道の大地を覆った誰も抗えない「雪の白さ」を遥かに凌駕する圧倒的な神の救いの力・福音を歌っています。
②詩篇51:7
ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください。そうすれば私は雪よりも白くなります。
聖書の「白さ」は、色彩の白を表す他、象徴的に(宗教的な)きよさにも用いられます。「雪」には洗浄効果があるとされていました(③ヨブ9:30)。
□ 美瑛町 ファームズ千代田 □
先ほどの聖句①、
①イザヤ1:18
さあ、来たれ。論じ合おう。──【主】は言われる──たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
この御言葉がイザヤ書の冒頭記されていることには重要な意味があります。なぜなら、
・イザヤ書は、イエス・キリストを預言する旧約聖書の中でも最も充実した〈栄光と受難のメシヤ〉を啓示している。
・新約聖書記者たちは、旧約聖書の中で最も多くこの書から引用して、イエスがメシヤであることを論証している。
・この書を通して示された神の救いの御計画は、イザヤの時代をはるかに越えて成就しつつあり、終わりの時に完成する。(黙示録)
からです。
イザヤは、その冒頭で「さあ、これから私イザヤが預言するメシヤは、あなたがたのどんな罪も完全に赦し、雪のように白くできるお方です。このお方をあなたがたに知って欲しいのです」と私たちを招き主イエスへと導こうとしているのです。
そこで、讃美歌521番を手掛かりにして、〈雪よりも白くされる〉ことの確かさを聖書に探訪して参ります。
■4.聖書探訪
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♪ 歌詞1節 ♪
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イェスよ心にやどりて 我を宮となしたまえ
汚れにそみしこの身を 雪より白くしたまえ
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♪ 繰り返し部 ♪
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我がつみをあらいて 雪より白くしたまえ
【1】 詩篇51編の背後
詩篇51編の冒頭、背後にあった事件が明記されています。
④詩篇51編書き出し
指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとに来たときに。
この詳細は、Ⅱサムエル記11章12章に記されています。そこには、泥縄式に罪の深みに墜ち罪で真っ黒・真っ赤に染まっていったダビデと、自分の罪の恐ろしさに震え上がり、「神に罪を赦していただきたい、雪より白くきよくしていただきたい」と葛藤し悶え呻いて悔いるダビデの姿が生々しく描写されています。
【2】 ヒソプによるきよめ
「ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください」とは、モーセの律法で定められたヒソプを用いた罪のきよめの儀式を希求する、悲鳴にも似た祈りです。なぜなら、この儀式は、ただ荘厳なだけではなく、人間では全うし得ない神による罪の赦しを授けるもので、人の社会的生命を左右する儀式でした。
【3】 イエスがもたらした完全なきよめ
そしてこの儀式は、《完全な贖罪・罪の赦し、完全なきよめ》の予型(雛形)であり、その実体(対型)はイエス・キリストが十字架上で死んで下さったことでもたらされたのです。
【4】 キリストによる全ききよめ
⑤ヘブル5:8-9
キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、/完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、
主イエスの御生涯は、罪人を「雪よりも白く」するためのものでした。血を流してまで激しく罪と死と戦って勝利する迄にイエスが〈お受けになった様々な苦しみ〉は、“北海道の大地を覆う「雪の白さ」の圧倒的力、畏怖の念を抱かせる怖ろしさ”の比ではありません。
主イエスは血を流してまで激しく罪と死と戦って勝利して下さりました。まったき罪の赦し“あらいきよめ”、人を雪より白くおできになるのです。
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♪ 歌詞2節 ♪
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イェスよみ腕をのばして 全ての仇をおいやり
我をまたきにえ(牲)となし おおまえに捧げしめよ
ヨハネ8章に、「イエスの御前に連れ出された姦淫の場で捕らえられた女性」の物語が記されています。
⑥ヨハネ8:9-11
彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。/イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。/わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。
歌詞2節は、「あなたは、私の罪を責め立てる人々、私に重くのし掛かってくる良心の呵責、その縄目と恥辱から私を解放して下さいました、あなたの御前に全き者とされて、神中心の人生を送ります」との、主イエスから全き赦しの恵みを頂いた女性の決意を歌っているようにも聞こえますし、また、
⑦ヘブル9:14
まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。
この恵みを歌っているようにも聞こえます。私たちも、この恵みに生かされています。
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♪ 歌詞3節、4節 ♪
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イェスよ十字架の御許に 我は伏してこいねがう
ながれいずる血しおにて 罪の身をきよめたまえ
イェスよ君のいさおにて きよめらるるぞうれしき
われをあらたにつくりて きみのものとなしたまえ
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♪ 原歌詞5節前半 ♪
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主イエスよ、あなたは辛抱強く待っている私を見て下さいます
さあ来てください、そして私の中に新しい心を創造して下さい
と歌います。この主の御前に謙った姿は、
⑧マタイ15:27
…彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」
この情景を、讃美歌521番、特に原歌詞5節前半は彷彿させます。
【5】なぜ、罪のきよめは主イエスの血によらねばならぬのか
この素朴な疑問には、次の聖句が答えます。
⑨ヘブル9:22,26,28
…血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。…キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れて…、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。
ここで注目して頂きたいのは、罪の贖いは一回的だと言うことです。一度限りの御業で完全無欠だと言うことで、合唱曲が「雪ははげしく ふりつづける」と歌うのとは対照的です。
【6】 なぜ、イエスの血により洗われると、真っ赤に染まるのではなく雪より白くなるのか
この疑問には、次の聖句が解き明かしてくれます。
⑩ガラテヤ3:26-27
あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。/キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。
バプテスマは〈罪の赦し〉と深く関係します。〈罪の赦し〉は、旧約聖書の洗いの儀式と関係する一種の洗いです。従って、あたかも体の不潔が水で洗い清められる如く、バプテスマは私たちが罪の汚れからきよめられることを象徴します。そしてバプテスマに続く〈キリストを着る〉とは、キリストと結ばれることの徴的表現です。
ですから、洗われて〈雪よりも白く〉せられるのは、神道の禊(みそぎ)とは全く異なります。
Wikipediaによれば、「禊は、罪や穢れを落とし自らを清らかにすることを目的とした、神道における水浴行為である。不浄を取り除く行為である祓(はらい)の一種とされる。」とあります。
しかし、〈雪よりも白く〉きよめられることは、キリストへの信仰の結果として罪を赦されキリストを着せられ、そして初めて生起するのです。
このことの感激は、礼服や和服、(ウェディング)ドレスを着たことがある方なら鮮やかに思い出せることでしょう。
聖書は「キリストを着る」ことについて次の様に記します。
⑪マタイ28:3
その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。
キリストを着ることは、〈衣は雪のように白かった〉イエスに結ばれ、よみがえりの命に与ることです。
⑫黙示録3:5
勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。またわたしは、その者の名をいのちの書から決して消しはしない。わたしはその名を、わたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。
「キリストを着る」ことは、「勝利し永遠のいのちを獲得した者」のしるしです。
■5.むすび ~ダビデは「雪よりも白くされた」のか
答えは勿論「イエス」です。
①イザヤ1:18
さあ、来たれ。論じ合おう。──【主】は言われる──たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
この預言がダビデに成就したのです。そのことを新約聖書は、ダビデ自身の証を引用してこう語ります。
⑬ローマ4:6-8 (⑭詩篇 32篇1-2節の引用)
同じようにダビデも、行いと関わりなく、神が義とお認めになる人の幸いを、このように言っています。/「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。/幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」
□ 札幌雪まつり □
ダビデが全き赦しを得て小躍りするまでにどれだけの時間を要したかは聖書に書かれていませんが、神による懲らしめと訓練の期間が満了した時、神はダビデを「雪よりも白く」して下さったのです。
イザヤによる預言は、主イエスにおいてことごとく成就し、終わりの日に完全に成就します。
私たちも、今はどんな状況にあっても、〈雪のように白くなる〉のです。
原歌詞5節後半はこう歌います。
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♪ 原歌詞5節後半 ♪
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あなたを求めてきた人たちに、
あなたは決して「ノー」とは言われませんでした、
今、私を洗ってください。そうすれば私は雪よりも白くなります。
私たちが赦しを祈り求める時、主イエスは決して「ノー」とは言われず、〈雪よりも白く〉して下さいます。
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