岡本先生と共に味わう讃美の力(13) ~ 讃美歌267番 「神は我がやぐら 」 (シンシナティ日本語教会)
神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。(詩篇46:1 新改訳2017)日本聖書協会『口語訳聖書』詩編 詩篇46編1節
はじめに
N姉の愛蔵書に『讃美歌物語』(全三巻、梅染信夫 著)がありますが、その巻頭言にこう記されています。
--- 梅染 P.1 ---
この本は、音楽を愛する人、讃美歌が好きな人、キリスト教に関心がある人、そしてキリスト者の方々を対象に書かれたものです。あなたは讃美歌を歌ったことがありますか。…あなたは讃美歌が好きですか。私は大好きです。…歌えば歌うほど讃美歌が好きになりました。しかし歌いながらいっも不思議に思っていたことがあります。「讃美歌はなぜこんなに美しいのだろう」という疑問でした。歌詞にはその詩に固有の詩的な美しさがあります。曲の持つ音楽的な美しさというものもあります。それらの相乗効果も勿論あるに相違ないのですが、讃美歌にはそれ以上のものがあるのです。
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梅染氏はこう述べられた後、その一例として今日の讃美歌267番 「神はわがやぐら」を取り上げておられますが、私たちはこの讃美歌の魅力のよって来るところを聖書に探求して参りましょう。
なお日本語歌詞は、杉山好(すぎやま よしむ)氏訳(J.S.バッハ作曲教会カンタータ第80番CD解説書)を使用します(資料1)。
歌詞1節1~4行目
※丸付き数字は、「資料3 引照聖句一覧」の聖句番号です
われらが神は堅き砦(とりで)、①
良き守りの武具なり。 ②
神はわれらを鮮やかに救い出したもう、 ③
今われらを襲えるもろもろの苦しみの中より。 ④(23)
この歌詞から想起される聖書の御言葉をいくつかご紹介します。
① 詩篇46:1 神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。
② エペソ6:11-13 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。/私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。/ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。
③ 申命記4:7 まことに、私たちの神、【主】は私たちが呼び求めるとき、いつも近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民がどこにあるだろうか。
④ Ⅰコリント10:13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。
さて、続く歌詞5行目では、歌詞4行目の「今われらを襲えるもろもろの苦しみ」の正体が明らかにされます。
歌詞1節5行目
かの古き悪しき敵 ⑤
ルターは〈かの古き悪しき敵〉という歌詞により、「敵の正体は、創世記ではエデンの園でエバを誘惑し、ヨブ記では神の御前でヨブを訴え、荒野では主イエスを誘惑し、そしてイスカリオテのユダに入ったあの悪魔だ。空想の産物では無く現存する、人類の歴史を通して全世界を惑わしてきたあの悪魔だ」と言っているのです。
聖書にはこう書かれています。
⑤ 黙示録12:9 こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。
12:12 それゆえ、天とそこに住む者たちよ、喜べ。しかし、地と海はわざわいだ。悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り、おまえたちのところへ下ったからだ。」
この悪魔の誘惑の恐ろしさ、悪魔の力がいかに激烈であるかが歌詞1節6行目以下で歌われます。
歌詞1節6行目~2節2行目
いまや必死のあがきを見せつつ、
大いなる勢力とあまたの策略を振るいて ⑥
怖ろしき攻撃に出でんとするなれば、
地上の子らにて、 これに耐うる者なし。
2.われらの力は無にひとし、 ⑦
われらはもろくも敗れ去りぬ。
大塚野百合氏は、このドイツ語原歌詞と日本語訳とを比較して次の様に書いておられます。
--- 大塚 P.160f、資料2参照 ---
讃美歌は「陰府のおさも などおそるべき」、聖歌は「くらきのおさ 秘術をつくしてせめきたるも などかおそるべき」としており、教会讃美歌も「攻めきたるも なにか恐れん 神ともにませば」と訳しており、悪魔は恐れるにたりないという印象を与えます。
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この大塚氏の言葉を皆さまはどう感じられたでしょうか。
私はこう思います、日本語訳の急所を正確についた、まさに正鵠(せいこく)を射(い)ている、と。
なぜなら聖書は「人間はサタンに勝てない」ことを明言しているからです。この聖句です。
⑦ エペソ2:2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。
〈空中〉とは、天より下で地よりは上の場所です。⑤黙示録12:9に記される通り、悪魔は天から投げ堕とされた御使いですので、天、すなわち神より下の存在です。しかし地上よりは上、すなわち人間界以上の存在であり人間を超える力を持っています。その悪魔について聖書はこう警告を発しています。
⑥ Ⅰペテロ5:8-9 …あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。/堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。
如何でしょうか、「神は我がやぐら」のドイツ語原歌詞はこれらの聖句を明瞭に歌っていますが、日本語歌詞ではぼやけています。ドイツ語原歌詞の“代表的な英語訳歌詞”でも、この傾向があるように感じます。
確かに〈悪魔〉という言葉は口にする事すらはばかられる言葉です。それなのになぜルターは、ここまで大胆に悪魔の正体を語り得たのでしょうか。
それは、ルターが、聖書の言葉と悪魔に勝利された主イエスへの信頼によって、自分も悪魔に勝利出来たからです。この実体験の喜びと感謝が歌詞2節3行目以降で歌われています。
歌詞2節3行目以降
されどわれらに代りて戦う真(まこと)の勇士あり。
こは神みずからが選びて立てし戦士(いくさびと)なり。 ⑧
汝その名をば尋ぬるか?
その御名はイエス・キリスト、
万軍の主なる大君、
しかして神おん自らにていますなり。 ⑨
かれ敵の軍勢に一歩をも譲ることなし。 ⑩
ルターにとって聖書は、単なる反教皇論争の為の典拠ではなく、悪魔の力を破る神の武具でした。御言葉によってルターは主イエスと同様、悪魔の誘惑・試錬に勝利できたからこそ、悪魔の力を破るイエス・キリストの御名を力強く歌い得たのです。
この「神は我がやぐら」は、旧約聖書の詩篇と共通する魅力を持っています。その理由をうかがい知ることが出来るコメントを、大塚さんとベイントン氏が次の様に記しています。
--- 大塚 P.160 ---
ヴィッテンベルク城教会の扉に九五箇条の提題を貼り付け、宗教改革の狼煙をあげて10年たった1527年に、ルターは激しい霊的な試練を受け、心身が一週間以上も痛めつけられ、全身が震える苦しみを味わいました。神の憐れみが信じられなくなったのです。夜、床につくと、「昼も夜も私たちの神の御前で訴える者」(黙示録12:10)悪魔が罪の目録を彼に突きつけて、彼を脅迫したのです。
--- ベイントン P.483 ---
「もしもわたしはもっと長生きをするならば、試練について本を書きたいと思う。というのは、それらが無ければ、いかなる人間も、聖書や、信仰や、神の恐れや愛を、理解することができないからである。誘惑に負けたことのない人間は、希望の意義を知らないのである」。「ダビデは恐ろしい悪魔に悩まされなければならなかった。彼はもしもひどい攻撃を経験しなかったならば、あんな深い洞察を持つことはできなかったのである」。
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この様なルターの詩篇記者ダビデと共通する実体験を踏まえて、この現実の世界に於ける悪魔との戦いの様相と、その勝利宣言を歌うのが歌詞の3節です。
歌詞3節
3.たとえ悪魔 世に満ちて
われらを呑み尽くさんとするとも、
われら いたくは恐れず、
勝利はついにわれらのものなれば。 ⑪(24)
この世の君
いかに猛りて歯ぎしりするとも、
その兇手(きょうしゅ)はわれらに及ばず、
げにこそ、彼は審かれたれば。
御言(みことば)の一振り 彼を倒すに足れり。 ⑫⑬
この歌詞から思い起こすのは、群衆が総督ピラトの官邸で「十字架につけよ」と叫び狂い、十字架に掛かられたイエスを取り囲んで嘲る場面です。そして、主イエスがよみがえられたことを知って慌てふためく場面です。
またこの歌詞から、主イエスは〈御言(みことば)の一振り〉で悪魔を打ち負かすお方だと明らかにされた御業と、世の終りに悪魔が完全に滅ぼされるとの使徒ヨハネが見た幻も思い出されます。
⑫ ルカ4:34-35 「ああ、ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」/イエスは彼を叱って、「黙れ。この人から出て行け」と言われた。すると悪霊は、その人を人々の真ん中に投げ倒し、何の害も与えることなくその人から出て行った。
⑬ 黙示録20:10 彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける。
これらの御言葉が歌詞3節に歌い込まれてます。
とは言え、攻撃・誘惑に勝利していくのが容易ならぬことは、長年キリスト者として生きてきた私たちは痛切に感じている事です。
梅染氏が一冊の書物を紹介しておられます。
--- 梅染 P091-093 ---
第2次世界大戦中ヒトラーと戦った教会の物語 『嵐の中の教会』 の中に,この讃美歌が歌われる場面があります。その原書のタイトルは『山の上にある村』で…それは忠実に,当時のいわゆる「ドイツ教会闘争」の事実に即していますから,その意味では,フィクションではなくてノン・フィクションです。…ヒトラー政権が登場し,しだいにナチ党の統制が強まり,国民全体が自由を束縛されていきます。そしてやがてナチ党員の村長が誕生し,国家権力を背景にグルント牧師に対立,伝道を妨害するようになります。不思議なことですが,このように福音の宣教が妨げられ,教会の信仰告白とその秩序が破壊されるようになってはじめて,村人たちは本当に真剣に「神のことば」に聴き従い,信仰の覚醒が促されるようになるのです。
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ところで「神はわがやぐら」は、当時迫害された教会の中だけでなく、教会の外でも歌われました。
1930年代、ナチスはドイツ的キリスト教の確立に向けた大衆運動を推し進めました。
※「岡本先生と共に味わう讃美の力(6) 『善き力に囲まれて』」参照
https://www.jesusgivesyourest.com/message/detail.php?id=282
この時ナチスは、示威(じい)活動の一環として街中を練り歩くとき、「神はわがやぐら」をナチス宣伝歌・行進歌として利用しました。また、ナチスはルターをキリスト教の英雄として担ぎ上げ、彼が晩年著した 『ユダヤ人と彼らの嘘について』 をユダヤ人迫害の根拠にしたのです。
歌詞4節
4.世人こぞりて御言(みことば)をなみし、
おのが思いに高ぶるとも、
主はわれらと共に戦い、 ⑭
御霊と賜物を与えたもう。 ⑲⑳(22)
世の子ら われらより肉の命を、
財と名を、はたまた妻子をも取らんとせば、
取るにまかせよ。 (25)
彼ら得るところなし。
神の国はなおわれらに留まるなり。 ⑯
この歌詞、特に5~7行目の歌詞に皆さまはどう思われたでしょう。
「なんと投げやりな! こんな恐ろしい事を讃美歌でよくぞ歌えたものだ。」といった驚きではないでしょうか。
ここで、主イエスが弟子たちに言われた言葉に聴いてみましょう。
(25) ルカ18:29-30 …「まことに、あなたがたに言います。だれでも、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は、/必ずこの世で、その何倍も受け、来たるべき世で、永遠のいのちを受けます。」
ルカ18:29の〈捨てた〉と訳されたギリシャ語 は、「ポイ捨て」ではありません。「構わないでおく、するにまかせる、甘んじて受け入れる」意味です。ゲッセマネで主イエスの「汗が血のしずくのように地に落ちた」(ルカ22:44)如く、ルターは「神は我がやぐら」を通して主イエスへの信頼を告白しているのではないでしょうか。この讃美歌は聖書の解き明かしを伴って歌われ聞かれるべきなのでしょう。
大塚野百合氏は、ドイツ語原歌詞と日本語訳との比較に関して、次の事も指摘しておられます。
--- 大塚 P.162 ---
讃美歌4節の「わが命も わがたからも とらばとりね」です。前の讃美歌の版(※1903年/1931年)では「わがいのちもわが妻子もとらばとりね」となっていたのですが、(※参照 Wiki)戦後、1955年(昭和30年)に改定されたとき、「妻子」が「たから」に変更されました。鈴木一郎氏の「中田羽後先生の印象」によると、そのとき讃美歌委員会の責任者がキリスト教界のある新聞に変更の理由として「原歌には『妻子』も『宝』もあるが、時代風潮を配慮して改訳した」という意味のことを発表されたというのです。中田羽後氏は、その新聞に反論を載せました。「『妻子』と『宝』では重みが違う。そういう改訳はルターの精神を損なうものだ」という論旨です。中田羽後編纂の聖歌233番の「み神は城なり」では、「この命も宝も名も子らも妻もささげまつり」になってます。
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また驚いた事に、この様な経緯を経た聖歌233番の歌詞から「妻」を意識的に削ったと思われるブログも複数存在しています。
この「神は我がやぐら」は、ルターが血みどろの霊的闘いを通して発見した彼の信仰の核心ともいうべき真理を歌い、それによろ勝利を感謝し神を誉め讃えているのです。それにも関わらず、ルターが歌詞に込めた聖書の言葉を神の言葉として畏れ敬うことなく訳者が意識的に改訳したり、言葉を意図的に削除するなら、主イエスは悲しんでこう言われないでしょうか。
(21) ルカ9:26 だれでも、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子もまた、自分と父と聖なる御使いの栄光を帯びてやって来るとき、その人を恥じます。
⑰ マタイ16:23 …「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
また、主イエスはこう言われました。
⑮ マタイ10:37-39 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。/自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。/自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。
マタイ10:39で〈いのち〉と翻訳されたギリシャ語の文字通りの意味は「たましい、いのち、生命の息」ですが、同時に、人間その人の中心的物事・欲求を象徴しているのです。
結びの奨励
あと、聖書を二カ所お読みして、今日のメッセージを締めくくります。
⑪ ローマ8:35-37 だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。/こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」/しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
⑱ コロサイ3:16 キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。
~祈り~
私たちの堅固な城でいて下さる神様、どうぞ私たちにも貴方への信頼と感謝を高らかに歌わせて下さい。
そして、私たちの十字架を負いつつ、主イエスの御足の跡を、御国に向かって進み行かせて下さい。
参考文献・資料
(大塚) : 大塚野百合 『賛美歌・聖歌ものがたり 疲れしこころをなぐさむる愛よ』 、創元社、1996/7/20
(梅染) : 梅染信夫 『栄光、神にあれ 讃美歌物語』 、新教出版社、1995/7/15
(ベイントン) : ローランド・ベイントン 『我ここに立つ―マルティン・ルターの生涯』、青山一浪・岸千年 共訳、聖文舎、 1981/5/10
(嵐の中の教会) : O.ブルーダー 『嵐の中の教会 ヒトラーと戦った教会の物語』、森平太 訳、新教出版社、1999/5/10
(Wiki) : フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AF%E3%82%8F%E3%81%8C%E3%82%84%E3%81%90%E3%82%89 (2022-08-14)
(その他)
岡本先生と共に味わう讃美の力(6) 「善き力に囲まれて」
https://www.jesusgivesyourest.com/message/detail.php?id=282
資料1 「ボンヘッファーの生涯」
資料6 「善き力にわれ囲まれ」 エッセイ
J.S.Bach BWV80 カンタータ第80番「神は我がやぐら」 解説書
(CD)ARCHIV PRODUKTION、F00A 29024/26、
「J.S.BACH:KANTATEN、バッハ 教会カンタータ選集/リヒター」、訳詩 杉山 好