岡本先生と共に味わう讃美の力(17) ~ 「久しく待ちにし」 O Come, O Come, Emmanuel (讃美歌94番) (シンシナティ日本語教会)
【神】である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、【主】はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、 【主】の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。
(イザヤ61:1-2、新改訳2017 )日本聖書協会『口語訳聖書』イザヤ書 61章1-2節
■ はじめに
この讃美歌は教会暦の待降節(アドベント)に好んで歌われます。アドベントは「到来」という意味がありますが、イエス・キリストの最初の到来(クリスマス、初臨)と、終わりの日の再臨の両方を指します。ですので、アドベントの四週間は、イエス・キリストの初臨と再臨、この両方を待望する思いを新たにする備えの期間です。
この讃美歌は荘厳さが満ちています。音楽的要素は別の機会に譲るとして、最初にその“秘密”を三つ挙げておきたいのです。
(1)まず、この讃美歌は、聖書から豊かな霊感(インスピレーション)を受けていることです。
(2)次に、聖書に基く五通りの“称号”を用いて「来て下さい」と呼びかけていることです。インマヌエル、エッサイのひこばえ、昇り出づる日、ダビデの鍵、そしてアドナイ、これらは全て「救いの歴史」「慰めの歴史」の主、メシアの称号です。
(3)そして、繰り返し歌われる「来たれ、来たれ(O Come, O Come)」「喜べ、喜べ (Rejoice! Rejoice!)」ですが、単なる熱狂的感情の発露ではなく、御言葉に謙った人々の真摯(しんし)な応答・讃美だからです。
では、ラテン語原歌詞の日本語訳(資料2)と引照聖句(資料3)を用いて話を進めて参ります。
■ 一節 「インマヌエル」
♪ ~ 《一節》 ~ ♪
来たれ来たれ、インマヌエル、 *1
囚われのイスラエルを解き放ち給え、*2
試練に苦しみ、孤立する民を、
神のみ子よ。
〈繰り返し部〉
喜べ、喜べ! インマヌエルが、
あなたのために生まれ給うた、イスラエルよ!
~ ♪ 一節end ♪ ~
《インマヌエルの預言》
〈*1〉インマヌエルとは(神が私たちと共に)との意味を持つメシア(救い主)の称号で、預言者イザヤが初めて記しました。
① イザヤ7:14
それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。
では預言者イザヤ以前はインマヌエルはどうだったかが気になります。
・ヤコブがエサウから逃亡した旅の道中、神は共におられることを約束された(創28:15)。
・ヨセフがエジプトでの苦難に耐えられたのは、主が共におられたからです(創39:2‐3等)。
・神の民をエジプトから導き出したモーセにも、主は共におられました(出3:12等)。
このように、神が「インマヌエル」なお方であることは、聖書の最初、創世記から啓示れていました。
ところで、預言者は聖書に大勢登場しますが、民が神に従っている期間に預言者は一人も遣わされませんでした。つまり預言者は不信仰な時代に「人々が罪を悔い改めて神に立ち返らなければ、どんな裁きが起こるか」を警告する為に神から遣わされたのです。イザヤもその一人でしたが民は聞き入れず、紀元前597-538年にバビロン捕囚となり国は滅びました。
このバビン捕囚は彼らの背信に対する義なる神の裁きであると、初代教会最初の殉教者ステパノは明言しました(使徒7:42-43)。
ところで、バビロン捕囚にって背信の民は the endとなり神の裁きが終わった訳ではありませんでした。義であれると同時に愛なる神は、裁きを語ったイザヤを用いて慰めと回復の希望(イザヤ40:1他)を人々に伝えました。
② イザヤ61:1-2
【神】である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、【主】はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、/ 【主】の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。
この慰めは、捕囚からの解放だけで無くメシアの到来をも指し示していたことは、幼子イエスを抱いて神を誉め讃えたシメオンの言葉(⑪ ルカ2:25-32)からも判ります。この慰めについては[■2節]でお話します。
《インマヌエルの預言成就》
イザヤの預言が成就したことは、福音書記者マタイがこう証しています。
③ マタイ1:23
「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」 それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
また、荒野でサタンの誘惑に勝利された(ルカ4章)主イエスは、ご自分が育ったナザレの会堂でイザヤ書を朗読後、人々に「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」と宣言されました( ルカ4:21)。
そして、「インマヌエル」は再臨に於いて完成する迄もずっと続くと主イエスは昇天に際して、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束されました。
この世にあって私たちは、今もなお残存する罪と死の支配に苦しみますが、私たちにはインマヌエルなる神が共におられます。私たちの望みが空しく潰える事は無いので、私たちは忍耐強く日々を送ることが出来ます。
《希望の約束》
そして、新天新地が完成する時に御座から発せられる言葉を使徒ヨハネはこう記しています。
④ 黙示録21:3-4
「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、/人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去った…」
〈*2〉1節後半は、直接的には裁きを受けた旧約時代の民がメシアの来臨(初臨)を待望する叫びでした。しかし同時に再臨の約束をも知る古今東西のキリスト者の叫びでもあります。私たちは、今もなお罪と死の支配に苦められていますが再臨の希望を与えられています。「来たれ、来たれ」「喜べ、喜べ!」と歌いつつ再臨を待ち望むのです。
■ 二節 「エッサイのひこばえ」
〈*3〉「エッサイのひこばえ」とはエッサイの子ダビデの子孫から生まれるメシアの称号です。
《「エッサイのひこばえ」の預言》
ダビデの王国はバビロン捕囚により巨木が切り倒される如く亡びました。
しかし、切り株からひこばえが芽生えて育つ如く、将来のメシア降臨に備えられた『残りの者』からメシアが生まれると具体的に預言されたのです。
※この画像の転載元は文末に明記しております。
イザヤは預言して民にこう告げました。
⑤ イザヤ11:1-2
エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。/その上に【主】の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、【主】を恐れる、知識の霊である。
この預言成就の待望を歌うのが2節です。
♪ ~ 《二節》 ~ ♪
来たれ、エッサイのひこばえよ、 *3
敵どもの爪から、
迫る地獄の軍勢から、
冥界の淵から導き出し給え。
〈繰り返し部〉
~ ♪ 二節end ♪ ~
イザヤはメシアを預言してこう記しました。
⑥ イザヤ53:2
彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
《「エッサイのひこばえ」の預言成就》
このイザヤが預言したメシアの姿は成就は、福音書の冒頭で「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ1:1以下)と記されます。
この箇所は、新約聖書を初めて手にして開かれた方の目に入って来る箇所です。「なに、これ?」と、先に読み進める意欲を削がれる方も少なくない様です。しかし聖書は「今からあなたが読む聖書は、正真正銘あなたの救い主なんだよ」と語り始めているのです。
そして、「わたしイエスは…ダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」(黙示録22:16)と、長きにわたる暗闇の歴史を終わらせる再臨を約束しておられます。
■ 三節 「昇り出づる日」
《旧約預言》
預言者イザヤは、メシアを「私たちが慕うような見栄えもない」(⑥イザヤ53:2)と預言しましたが、同時にメシヤを〈*4〉昇り出づる日、すなわち太陽に喩えて、威光と慰めに満ちたお方だとも預言しました。
⑧ イザヤ9:2
闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。
預言者マラキは、メシアがもたらす慰めと喜びを次の様に表現しました。
⑨ マラキ4:2 (新共同訳では3:20)
しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。 ※〈その翼〉とは太陽光線と解せられる。
♪ ~ 《三節》 ~ ♪
来たれ来たれ、昇り出づる日よ、*4
待ち望んでいた慰めよ。 *5
夜の霧をしりぞけ給え、
夜の闇をはらいのけ給え。
〈繰り返し部〉
~ ♪ 三節end ♪ ~
昇り出づる太陽の勢いと暗闇が失せ去って行く夜明けの光景に、メシアの誕生が喩えられています。
この写真は家内と一緒に2018年秋、蒜山・大山で見た太陽が雲海の彼方から昇り出た光景です。この讃美歌の歌詞はこの時の感激を鮮やかに思い出させてくれます。山で夜明けを迎えられた経験をお持ちの方なら共感して頂ける事でしょう。
《旧約預言の成就》
この預言の成就をルカはこう記します。
⑩ ルカ1:78-79
これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、/暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」
〈*5〉「待ち望んでいた慰め」の〈慰め〉とは、人間の悲しみを喜びに変えて下さる神の御業を言います。
約束された慰め主を抱いたシメオンの喜びがルカ福音書に記され(⑩ ルカ2:25-32)ている様に、この慰めと喜びは私たちの肉体の死に於いて輝きを増し、再臨に於いて永遠に完全に私たちのものになります。(④ 黙示録21:3-4)
■ 四節 「ダビデの鍵」
〈*6〉 「ダビデの鍵」とは、天の御国の門を開いて導き入れてくださるお方のことです。そして聖書は、主イエスこそ天の御国の鍵を持つ救い主であり、彼の権威が絶対であることを言っています。
《旧約預言》
⑪ イザヤ22:22
わたしはまた、彼の肩にダビデの家の鍵を置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。
♪ ~ 《四節》 ~ ♪
来たれ、ダビデの鍵よ! *5
天の王国を開き給え、
我らの旅路を安らかにならしめ給え、
陰府(よみ)への道を閉ざし給え。
〈繰り返し部〉
~ ♪ 四節end ♪ ~
《旧約預言の成就》
主イエスはこう言われました。
⑫ ヨハネ10:7
そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。
⑬ 黙示録3:7-8
…『聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っている方、彼が開くと、だれも閉じることがなく、彼が閉じると、だれも開くことがない。その方がこう言われる──。/わたしはあなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。
主イエスは言われます。「見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた」。な
んと素晴らしい約束でしょう。人の心(の扉)は容易く開いたり閉じたりするので当てになりません。しかも主イエスは言われます。「あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったから
である」と。ここ(新改訳2017)で「少しばかりの力」と訳された箇所を、口語訳では「少ししか力が」、新共同訳では「力が弱かった」と訳していますが、日々信仰の弱さ至らなさを覚える私たちにとって、なんと深い慰めに満ちた希望の言葉でしょう!「主よ、主よ、来て下さい」「喜べ!、喜べ!」と讃美せずにはおられません。
■ 五節 「アドナイ」
♪ ~ 《五節》 ~ ♪
来たれ来たれ、アドナイよ!*7
シナイの民の主よ、*8
その御山の上より掟を授け給うた、
栄光の御稜威(みいつ)のうちにいまして。 *9
〈繰り返し部〉
~ ♪ 五節end ♪ ~
〈*7〉 「アドナイ」とは神の御名を読み替えた呼称です。神を現すヘブライ語の神聖四文字は旧約の民にとってはあまりにも畏れ多く口にすべからざる言葉でしたので、神の御名を「アドナイ」と読み替えたのです。
その神の畏ろしさが、聖なる山〈*8〉 シナイ山でモーセが神から十戒を与えられた場面でこう描写されています。
⑭ 出エジプト19:9,16
【主】はモーセに言われた。「見よ。わたしは濃い雲の中にあって、あなたに臨む…//三日目の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。
この情景を、ラテン語原歌詞(の邦訳)では「〈*9〉 栄光の御稜威(みいつ)のうちにいまして」、英語訳歌詞では「in cloud and majesty and awe(雲と威厳と畏敬の念の中で)」と歌っています。
シナイ山で十戒を、即ち「人間が人間らしく生きるための掟」を神の民に授けて下さった神は、初臨(ルカ2:8-14)において、御使いの喜びの告知を伴って平和の君として来て下さりました。それでも羊飼いたちは恐れるほどの栄光が現されたのです。
なれば、裁き主として主イエスが再臨される時の栄光はどれ程のものでしょう。主イエスは言われました。
⑮ マタイ24:30
そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。
私たちは、この偉大な力と栄光とともに主イエスが来て下さる再臨を待ち望んで歌います。「主よ、主よ、来て下さい」「喜べ!、喜べ!」と。
■ 結びの奨励
私たちは罪の赦しの喜びに生かされていますが、この世の現実と私たちの内なる「罪の残滓」故に、肉体的、精神的、霊的な弱さをしばしば覚えます。私たちは今日も、「主よ、主よ、み民を救わせたまえや」、「久しく待っています!」なのです。
私たちが待つことには二つの側面があります。一つは、速やかな解決を待つことです。
もう一つは、御言葉に信頼して謙って現実を受け入れることです。「イエス様がインマヌエルなので私は耐え忍べます。貴方は私の心を満たして下さります」と謙って現実を受け入れることです。
その謙る私たちを主イエスは祝福して下さりました。
⑯ マタイ5:3-4
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
私たちは、いついかなる状況にあろうとも、主が慰めて下さるので「待つ」てるのです。待つ間がどんなに長く感じられ心細かろうとも、その慰めは永遠です。
⑰ ヨハネ14:3
…あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。
さあ、主を誉め讃えて歌いましょう!
喜べ、喜べ! インマヌエルが、
あなたのために生まれ給うた、イスラエルよ!
~ 以上です ~
【画像転載元】
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