岡本先生と共に味わう讃美の力(8) 讃美歌136番「血潮したたる ~O Haupt voll Blut und Wunden」(シンシナティ日本語教会)

岡本先生と共に味わう讃美の力(8) 讃美歌136番「血潮したたる ~O Haupt voll Blut und Wunden」(シンシナティ日本語教会)

ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。日本聖書協会『口語訳聖書』ガラテヤ人への手紙 3章1節

今日取り上げる讃美歌136番「血しおしたたる」は、イースター(復活祭)を控えた受難節によく歌われ、多くの方々の愛唱讃美歌の一つともなっています。
今回は、
1. プロローグ
2. 「讃美歌136番の生い立ち」(資料1)
3. 「J.S.バッハ 『マタイ受難曲』に於ける聖句と讃美歌136番の原歌詞」(資料2)
この順序でお話しします。


■_1.プロローグ

讃美歌136番「血しおしたたる」は、マタイによる福音書の26-27章をバックボーン(背骨)としたJ.S.バッハ(大バッハ)のマタイ受難曲にその原曲が組み込めれたことにより、
①讃美歌「血しおしたたる」に新しい命が吹き込まれて世界に広まりました。
②同時に彼のマタイ受難曲全体が、讃美歌を基調としたこれ以上望み得なく素晴らしい「歌う信仰告白・説教」になりました。
では、資料1により、讃美歌136番の生い立ちについて手短にお話しましょう。


■_2.資料1 「讃美歌136番の生い立ち」 の概説

☆ 原歌詞「十字架にかかりて苦しめるキリストの肢体への韻文の祈り」(ラテン語)の誕生
12-13世紀に、原歌詞「十字架にかかりて苦しめるキリストの肢体への韻文の祈り」(ラテン語)の誕生します。

☆ マルティン・ルターによる宗教改革
ルターによる宗教改革、とりわけ「コントラファクトゥーア運動」という讃美歌に関する施策とドイツ語訳聖書、この二つ無くして讃美歌136番もバッハのマタイ受難曲も存在し得ませんでした。

☆ メロディ-(原曲)の誕生
1601年、ハンス・レオ・ハースラーにより「私の心は千々に乱れ」という恋の歌が作曲されます。
そこでは、「私の心は千々に乱れる。やさしい乙女のゆえに私は悩んでいる。私は一日中嘆きとおし、ため息をつき、悲嘆にうち沈む」と歌われます。

☆ コラール「血しおしたたる」の誕生
1656年、パウル・ゲルハルトが、原歌詞のドイツ語訳(全10節)に、ハースラーの恋愛歌をメロディーとして組み合わせ、コラール「血しおしたたる」を出版しました。
実は、この年ゲルハルトの長女が一歳に満たず死亡してますので、彼が悲しみの中で十字架を仰ぎ主のみ苦しみに慰められ、心に染みる淋しさを響かせるハースラーのメロディーを用いた可能性があります。
しかし大事なことは、この歌詞と曲の組み合わせは、「神讃美に相応しい世俗音楽(のメロディー)を讃美歌に用いる」というルターが指導したコントラファクトゥーア運動の成果だと言うことです。

☆ J.S.バッハ 『マタイ受難曲』の誕生
そして、ゲルハルトの「血しおしたたる」がテーマ曲的に組み込まれたバッハのマタイ受難曲が誕生します。
この作品では、復活に関して全く歌われていませんが、
(1)復活の主イエスキリストへの信仰が終始一貫して根底にしっかりと据えられおり、
(2)『マタイ受難曲』を聴く者が、弟子たちと一緒にキリストの受難の目撃者となりキリストと向き合って、主イエスの受難と復活の恵みを一人一人が受け取ることができるような曲の構造と仕組みがあります。
その構造と仕組みとは、次の様なものです。
①ルター訳ドイツ語聖書マタイ26章1節~27章66節がマタイ受難曲のバックボーン(背骨)として使われてレシタティーボ(聖句の自然なリズムやアクセントを生かして語るような独唱)で歌われます。
②その背骨に命漲る臓器が組み付けられるが如く、アリア(叙情的・旋律的な自由詩の独唱曲)や他のコラール(会衆讃美歌)と共に、編曲(和声付け)されたゲルハルトのコラール「血しおしたたる」が組み合わされています。

☆ 讃美歌136番「血しおしたたる」
歌詞は由木康による意訳、和声はバッハによる編曲が採用され、讃美歌136番「血しおしたたる」として1954年出版の讃美歌(日本基督教団讃美歌委員会)に収録されました。


■_3.資料2 「J.S.バッハ 『マタイ受難曲』に於ける聖句と讃美歌136番の原歌詞」を用いて

先ほどのプロローグでお話しした様に、バッハのマタイ受難曲全体が、この讃美歌を基調としたこれ以上望み得ない素晴らしい“歌う信仰告白・説教”になっています。
そこでここからは、資料2を、「歌う信仰告白・説教の原稿」、言い換えれば「音楽劇の台本」の如く用い、参加者の皆さまで“台詞”を分担して読み進め、要所要所で私のメッセージを入れさせていただきます。
なお資料2は、バッハ『マタイ受難曲』のLP/CD添付解説書から、
①最初と最後の合唱
②讃美歌136番の原歌詞(全部で5節)が歌われる合唱
③その前後のレシタティーボで歌われる聖句 (新改訳2017に置き換えています)
を抜粋して作りました。

~備考~
集会当日は、以下の【】付き見出しを付けた解説は、資料2の【】付き見出し箇所と対応しています。また当日は時間の関係で聖書箇所を一部割愛しております。


【1】 讃美歌136番「血しおしたたる」の引照聖句にガラテヤ3:1、

「ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。」

があります。
バッハのマタイ受難曲は、この聖句を意識するが如く、ステージの幕が上がって「十字架につけられたイエス・キリストを聴衆の目の前に描き出」す[導入の合唱]から始まります。

【2】 導入の合唱
まず第一合唱団は「娘たちよ」と、全キリスト教徒に呼びかけます。
そして、「見よ」と叫ぶと、第二合唱団が「誰を」「いかに」と応答し、
児童合唱によって,コラール(讃美歌)が高らかに歌われます。

【5】 讃美歌136番の原歌詞、第6節
  われはここなる汝のみもとに留まらん。
  われを退けたもうなかれ!
  みもとよりわれは去らじ,
  汝の心傷つき破るるとき。
  汝の胸,とどめの一突きに青ざめ果てなば,
  われはこの腕をば広げて,
  み体をわがふところに抱きまつらん。

原歌詞第6節4行目、「汝の心傷つき破るるとき」と翻訳された箇所は、「あなたがブロークン・ハート(恋愛に破れ傷ついた心)になるとき」つまり、「イエスが私ゆえにブロークン・ハートになっておられる」との意味です。

私たちは、自分の心がブロークンになる時、その癒しをイエスに祈ります。しかしこの讃美歌は、イエスが私たちのために十字架上でブロークン・ハートになられたと歌っています。しかもその表現に続く歌詞は、主イエスの亡骸を私の胸に抱きたいという、イエスに対するひたむきな愛情表現です。ここには、ゲルハルトが、こときれた愛児を抱いたゲルハルトの切なる思いが投影されているのかもしれません。

【9】 讃美歌136番の原歌詞、第1,2節 の2節
  おん身,気高き御顔よ,
  つねならばおん身の前に
  世の大いなる権威も恐れおののくものを,
  いまおん身はいかに唾せられし,

  いまおん身はいかに色失せたまいし!
  たれの打ちたるか,その御まなこ,
  いかなる光もならびえぬ光の源を,
  かくも無残に閉じ塞(ふさ)ぎしは?

「導入の合唱」で、「見よ」-「誰を」「いかに」との掛け合いがありましたが、ここでも、「いかに」、「たれ(誰)」と歌い、侮辱を受けられたイエスを見つめています。

私たちは腹が立ったり、くやしかったり悲嘆に暮れる時には、この讃美歌を思い出しましょう!
私たちは、人につばきをかけられたことがあるでしょうか。(私は中学生時代にいじめっ子にされたことがありますが...)。自分が誤解されたとか、馬鹿にされたとか、悪口を言われたとかいっても、大切な人を失ったとかあっても、主イエスが受けて下さった侮辱と苦しみに比べれば物の数に入りません。十字架の前では、私たちは悲劇の主人公のような顔はできないと思うのですが如何でしょう。

讃美歌136番の誕生に深く関わったゲルハルトは、人生の前半をドイツ国民の三分の一が失われた30年戦争の渦中に生き、ようやく平和が訪れ愛児が生まれたと喜んだのも束の間、愛児の亡骸を抱くことになりました。また、バッハも幼い愛児を葬っています。しかし、ゲルハルトもバッハも十字架上の主イエスを仰ぎ見つつ復活の望みに慰められ耐え忍んだことでしょう。

【12】 マタイ27:50 「しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。」
この時叫ばれた言葉は「完了した」でした。

「イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。」(ヨハネ19:30)

【13】 讃美歌136番の原歌詞、第9節
  いつの日かわれ去り逝くとき,
  われをば離れ去りたもうな。
  われ死に面するとき,
  汝 立ち出でてわが盾となりたまえ!
  恐怖と不安の闇
  わが心を囲み閉ざさんとするとき,
  われをこの怖れの闇より引き出したまえ!
  汝の嘗(な)めつくせし不安と責苦のゆえもて。

キリスト・イエスの死に自分自身の死を重ね合わせています。
ることのできる道が、すなわち十字架の主に合わされ、その死をともに死に、その生命にともに生かされて罪の支配に打克つあの恩恵のバブテスマの道(ローマ6:3-14)が開かれました。

「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」(ローマ6:3)

【14】 最後を飾る大合唱
マタイ受難曲の最後を飾る大合唱では、墓の中に墓石の向こう側に葬られた主キリストの安息と、私たちの拠り所・安息が歌われます。
なぜ、マタイ受難曲の終曲で「主キリストの安息」が歌われるのか、それは主イエスが最後に叫ばれた言葉が「完了した」(ヨハネ19:30)であったことを思い出せばその理由が分かります。
主イエスは救いの御業を成し遂げられて葬られたのです。創世記2:2-3に次の様に書かれています。

「神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。/神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。」(創世記2:2-3)

創造の御業を完成された神の安息が記されてます。
これと同様、主イエスは救いの御業を成し遂げられて墓の中で休まれたのです。そして、主イエスは墓の中で朽ち果てること無く三日目に蘇られました。
私たち人間は誰もが死を迎えますが、私たちキリスト者の死は、この主イエスと同様「復活して栄光に与る」確かな希望に裏付けられています。
それゆえ、このマタイ受難曲の最後を飾る大合唱では、
(1)救いの御業の完成を意味する「主キリストの安息」と、
(2)主の贖罪により、「主イエスを十字架につけたのはわたしだ」と罪に悩み不安におののく魂に、「平安を得る逃れ場」、「憩いの枕」、深い慰めがもたらされたこと
が歌われます。

  われら涙流しつつひざまずき、
  御墓なる汝の上に願いまつる――
  憩いたまえ安らかに,安らかに憩いたまえ!
  安らい給え、苦しみぬきし御肢体(からだ)よ!
  憩いたまえ安けく,憩いたまえ,心より!
  御身を納めし墓と墓石こそ
  わが悩める良心のうれしき憩いの枕,
  また魂の安けき逃れ場にてあれば。
  憩いたまえ安けく,安けく憩いたまえ!
  かくてこの目はこよなく満ち足りてまどろまん。

ところで、最終行の「まどろまん」は「眠ります」の意味です。私たちが労苦(伝道の書、コヘレトを参照)から解放されてこの世を去る時、主イエスの贖いの御業に満ち足りて眠れます、安息に入れます、との感謝と神讃美で結ばれています。

今日、ご参加いただいた皆さま、如何でしたでしょうか。
主イエスの弟子たちと一緒になってキリストの受難の目撃者となり、主イエスと向き合っていただけたことと思います。今日分かち合えた主の受難(と復活)の恵みを噛み締めながら、来る受難日、イースターを迎え、その先御国へと続く信仰生活の日々を共に歩んで参りましょう。


《参考文献》
大野野百合 『賛美歌・聖歌ものがたり』、 創元社、1995年12月、P.166ff
杉山 好(よしむ) 『聖書の音楽家バッハ』、音楽之友社、2000年6月、P.203ff
磯山 雅(ただし) 『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』、東京書房、1985年4月、P.173ff

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