岡本先生と共に味わう讃美の力(7)「われに来よと主は今 Jesus Is Tenderly Calling」(シンシナティ日本語教会)
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。/わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。/わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」日本聖書協会『口語訳聖書』マタイによる福音書 11章28-30節
今日取り上げる讃美歌「我に来よと主はいま」は、作詞作曲者の概説(資料1)から察せられるように、「御言葉を語る説教」と一体になった「歌う説教」でもあります。
今回は、
1.プロローグ
2.讃美歌に導かれた聖書の探求
3.結び ~主のpleading
この順序でお話しします。なお、聖書は日本語訳が新改訳2017、英語訳はNIVを使います。
■_1.プロローグ
今回の準備に先立って、この讃美歌の選者N姉に、この讃美への想いをお尋ねしました。
N姉のご実家は代々続いたクリスチャンで、ご親族の女子の皆さまと同様に、1888年(明治19年)に設立された全国でも有数の歴史を持つキリスト教主義の女学校で学ばれました。ですので親戚が集まると皆で讃美歌を歌い同窓会のようになったそうです。キリスト教系大学で学ばれた間も、あらゆる讃美歌に触れ多くを愛唱されたので、今回の選曲は「特に好きな讃美歌」というよりも、歌ったときに自分が励まされる讃美歌のうちで引用聖句が多く付いている曲を選ばれたそうです。
特に1番と、2番、「われに来よと主は今、やさしく呼びたもう」、「疲れ果てし旅人、重荷をおろして」など、イエス様が絶えず自分を近くに招いてくださる、優しくいつも自分を包み込んで下さる、という思いに満たされるそうです。
また、社交ダンスに親しまれたM姉にとっては、つい踊りたくなる讃美歌だそうです。
今日メッセージをさせていただく私も、ウィンナワルツのリズム(6/8拍子、♪=126)で「帰れやと主は今呼びたもう」と歌うと、昭和の良き時代の懐かしい情景を思い出します。当時、社宅の広い敷地内の広場で夕方遊んでいて「ご飯ですよー」との呼び声がすると、それに応えて私たち子どもが一斉に足取り軽く家路を辿ったものです。
私たちがこの讃美歌に引かれるのは、ある種の帰巣本能があるからかもしれませんが、御言葉に生きるクリスチャンならではの理由もあると思うのです。それは、
ルカ9:23 イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
この御言葉に聴従する私たちクリスチャンは、癒やしと慰め、霊的養いをこの讃美歌から頂けるからです。
■_2.讃美歌に導かれた聖書の探求
さて、資料2(歌詞)を“道標”に使って聖書の探求を始めますが、まず最初に、今日の讃美歌の内容を一言で表現する聖句をご紹介します。
Ⅱコリント6:1-2 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。/神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。
次に英語歌詞を見ると、Jesusの他にCallingとtodayが何度も繰り返され、所謂キーワードになっていることが判ります。
■_2.1 第一のキーワード「Calling」の歴史
callには、①呼び寄せる、召す、②家に招き入れる、③名を呼ぶ、名づける、と言った意味があります。
では皆さま、神が私たち人間を初めてCallされた出来事は何か、それが聖書の何処に記されているかご存じでしょうか。
神が私たち人間をCallされた出来事で良く知られているのは、
Ⅰサムエル3:4 【主】はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい、ここにおります」と言って、
この事でしょうが、実はもっともっと前からなのです。
創3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」
罪と死の支配に墜ちたアダムとエバが、神から身を隠した、その時です。
人類の堕罪の時から「神のCallingの歴史」は始まって今日に至り、そして終わりの日まで続くのです。
そこで、「神のCallingの歴史」について、三つの段階に分けてお話します。
□_Callingの歴史Ⅰ ~旧約預言者を通して
主なる神は、旧約聖書の時代、何人もの預言者を私たちの元に遣わして「帰れcall」をされました。枚挙にいとまがないので、ごく一部をご紹介します。
イザヤ31:6 帰れ、イスラエルの子らよ。あなたがたが反抗を強めているその方のもとに。
イザヤ55:7 悪しき者は自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。【主】に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。
このような神の帰れcallにもかかわらず、罪に支配された人々の応答は、
ゼカリヤ1:4 あなたがたの先祖のようであってはならない。先の預言者たちは彼らに叫んで言った。『万軍の【主】はこう言われる。あなたがたは悪の道と悪しきわざから立ち返れ。』しかし、彼らはわたしに聞かず、わたしに耳を傾けもしなかった。──【主】のことば──
マラキ3:7 あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の【主】は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちは帰ろうか』と。
マラキ3:7の「どのようにして、私たちは帰ろうか」は、帰る手段を問うているのではなく「たわけたことを言うな」との嘲りです。それでも主は、罪を自覚せず罪の支配にとどまり続けて疲弊する民を、嘆き悲しまれ呼ばわり続けられました。
エレミヤ2:31 あなたがた、この時代の人々よ。【主】のことばに心せよ。わたしはイスラエルにとって荒野であったのか。あるいは暗黒の地であったのか。なぜわたしの民は、「私たちは、[さまよい歩き]ます。もうあなたのところには行きません」と言うのか。
エレミヤ50:6 わたしの民は、迷った羊の群れであった。その羊飼いたちが彼らを[迷わせ]、山々へ連れ去った。彼らは山から丘へと行き巡り、休み場も忘れた。
エレミヤ2:31の[さまよい歩き] 、エレミヤ50:6の[迷わせ]がRoamです。
讃美歌1節では、疲弊した民を嘆き悲しんんで帰れと呼ばわる主の御思いが歌われています。
Jesus is tenderly calling you home
Calling today calling today
Why from the sunshine
Of love will you roam
Farther and farther away
□_Callingの歴史Ⅱ ~神の御子イエスによって
そこで主なる神は、疲れ果てた罪人の元に、これまでの預言者に代えて神のひとり子イエスを遣わされました。
マタイ9:36 また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。
そして主なる神は、直接御子イエスによって「帰れcall」を続けて下さりました。
マタイ11:28-30 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。/わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。/わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
この主イエスの招きを讃美歌の2節は歌います。
疲れはてしたびびと
重荷をおろして
きたりいこえわが主の
愛のみもとに
ところで、主イエスは人々を招くと同時に、心を頑なにし続けることの恐ろしい結末を、聞く耳を持つ人なら誰もがハッと気づく喩え話で警告されました。マタイ21:33以下がそうです。
マタイ21:33-36 もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がいた。彼はぶどう園を造って垣根を巡らし、その中に踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。/収穫の時が近づいたので、主人は自分の収穫を受け取ろうとして、農夫たちのところにしもべたちを遣わした。/ところが、農夫たちはそのしもべたちを捕らえて、一人を打ちたたき、一人を殺し、一人を石打ちにした。/主人は、前よりも多くの、別のしもべたちを再び遣わしたが、農夫たちは彼らにも同じようにした。
先ほど私が『Callingの歴史Ⅰ ~旧約預言者を通して』でお話したことを主イエスは言われたのです。
さらに主イエスは喩えを続け、これからまさに起きようとしていることを告げられます。
マタイ21:37-39 その後、主人は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、息子を彼らのところに遣わした。/すると農夫たちは、その息子を見て、『あれは跡取りだ。さあ、あれを殺して、あれの相続財産を手に入れよう』と話し合った。/そして彼を捕らえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまった。
この譬え話を聞いた人々はどう応答したか。預言者たちに続いて御子イエスをも捕らえ侮辱し十字架に掛けたのです。これが主イエスの警告への答えでした。
それでもなお神は、この悪しき罪人の業をも用いて、罪の贖いを成し遂げてくださりました。私たちの身代わりに死んで下さった(贖罪の死)罪無き御子イエスは、よみがえらされて死に勝利して天に昇られ、私たちに聖霊を遣わしてくださりました。
マタイ21章の主イエスの喩え話に戻ります。この内容はこの後お話しする『Callingの歴史Ⅲ』でもあります。
マタイ21:40-43 ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょうか。」/彼らはイエスに言った。「その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう。」/イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』/ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。
□_Callingの歴史Ⅲ ~私たちの福音宣教によって
主イエスが再び来て下さり、終わりの時を迎える迄、聖書と、聖霊と、私たち主イエスの弟子を用いて、神は全世界の人々をcallしておられます。これが『Callingの歴史Ⅲ』です。
ですから、私たちがこの讃美歌を歌う時、「主は人類の歴史を通してどんなに素晴らしいことをしておられるか」と証ししておられるのです。
■_2.2 第二のキーワード today「今日」
ここまで、第一のキーワード主の「calling」についてお話してきましたが、次に第二のキーワード、today「今日」についてお話します。
そのtoday「今日」にどんな意味あるのでしょうか。
Ⅱコリント6:1-2 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。/神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。
「今日」とは主イエスが来て呼ばわっていて下さる時、恵みの業をなさる時です。だから先延ばしせず「今」即座に応えなさいと強く勧めるのです。
ここで、「きょう」と勧められた一人を聖書に尋ねましょう。
使徒26:27-29 アグリッパ王よ、王様は預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」/するとアグリッパはパウロに、「おまえは、わずかな時間で私を説き伏せて、キリスト者にしようとしている」と言った。/しかし、パウロはこう答えた。「わずかな時間であろうと長い時間であろうと、私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです。」
昨今の詐欺の常套手段に、「慎重な判断をさせまいと急ぎ慌てさせる」ことがあります。慎重さは私たちにとって心すべきことです。
しかし慎重さが「きょう」を殺してしまうことがあります。日本の喩えもこう戒めています。
「今日の後(のち)に今日なし」
今日という日は二度とやってくることはない。だから今日できることは今日やっておけ、という戒めです。
聖書は、もっとはっきり、「きょう」と言うチャンスを生かすか否かにあなたの人生がかかっている、と教えます。
ヤコブ4:13-14 「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。/あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。
この讃美歌の最終行では、Quickly「すぐに」と歌って神のcallingを締めくくっているのが印象的です。
聖書にはcallingへの応答を先延ばしせず即応してチャンスをモノにした人々が大勢登場します。その一人に、CSの子どもたちも知っているザアカイがいます。
ルカ19:5-10 イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」/ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。≪中略≫イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。/人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」
この出来事は、心の準備が整ってこそ主イエスが呼ばわる声に即応できることを教えます。彼は取税人の頭という立場上、取税人仲間や納税者たちからイエスについて聞き知っていたことは確実です。こうしてイエスを迎える準備が整っていたからこそ、主イエスが来られると知ってイエスを喜び迎え入れ救いに与れたのです。
私たちも同じではないでしょうか。友だちや育った環境により準備が出来ていたから主のcallingに応答して救いに与れたのです。
ローマ10:14-15 しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。/遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」と書いてあるようにです。
日々聖書に親しみ、主イエスを礼拝し、祈り、今日はここに集い恵みを分かち合えている私たちです。
その私たちは、いつ未信者の方々が主イエスのcallingを受けても即応出来るだけの準備を整える役割を託されているのです。
■_3.結び ~主のpleading
結びとして、歌詞の第3節、第4を手短にお話します。
歌詞の第3節Jesus is waitingは、ルカ15章の放蕩息子の譬え話に登場する弟を待ち望む父の姿を歌っています、これは分かりやすいです。
歌詞の第4Jesus is pleadingもその譬えに登場する父の姿を歌ってると言うと、「?」と感じるかもしれません。なぜなら、Pleadingとは懇願することですから、父親に喩えられた神が人間に懇願するだろうか?、との疑問が湧いてくるのは当然です。
このPlead「懇願」と訳されたギリシャ語ですが、
-ルカ7章では、ある百人隊長に重用されてた僕が瀕死の時、
-ルカ8章では、会堂司ヤイロの一人娘が瀕死の時、
主イエスに助けを懇願する言葉で使われています。そしてルカ15章の放蕩息子の譬えでも使われています。
ルカ 15:28 すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼を[なだめた]。
Luk 15:28 "The older brother became angry and refused to go in. So his father went out and [pleaded] with him.
この様に、罪に支配され心が頑なになり瀕死の状態にある罪人に「懇願する」ことも、愛なる神の属性の一つなのです。
ところで、心を頑なにすることは、未信者の方々ばかりでしょうか? いいえ、私たちクリスチャンもしばしば心が頑なになってしまうのです。ですから、
ヘブル3:13,15 「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。≪中略≫「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。神に逆らったときのように」と言われているとおりです。
この御言葉を覚えて歌詞の4節を歌いましょう。
Jesus is pleading O list to His voice
Hear Him today hear Him today
イエスは懇願している、その声に耳を傾けよ。
今日、彼の声を聞いてください!今日、彼の声を聞いてください!
この主イエスのcallingを歌い、ワルツのステップを刻みながら「Quickly 」に主の元へ帰って行ける私たち、
「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足」とされた私たちはなんと幸いなことでしょう。
今は未信者の友人や家族の方々も、この幸いへと招かれています。小躍りして主の元へ帰れる日が必ずもたらされます。