岡本先生と共に味わう讃美の力(10) ~「丘に立てる荒削りの The Old Rugged Cross」(シンシナティ日本語教会)
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。日本聖書協会『口語訳聖書』ローマ人への手紙 1章16節
今回は、
【1】 作詞作曲者ベナードの生い立ち
【2】 讃美歌誕生の(歴史的)背景
【3】 原歌詞に見る信仰告白
【4】 私たちに約束された「冠」
この順に、「丘に立てる荒削りの The Old Rugged Cross」が有する魅力の秘密、それは「純粋な福音」を歌っていることを解き明かして参ります。
【1】 作詞作曲者ベナードの生い立ち
まず、ジョージ・ベナード(George Bennard、1873~1958)の生涯について、専ら大塚野百合著 『賛美歌・唱歌ものがたり〈2〉「大きな古時計」と賛美歌』、創元社 2003/12/10(P.127以下)を参照してお話します。
1)出生と若くしての苦労
ベナードは1873年2月4日に米国オハイオ州ヤングスタウンで、貧しい炭鉱夫の家に生まれ育ちました。16歳で父親を炭鉱落盤事故で失った彼は、母と四人の姉妹たちを支えるため、学校教育を断念して炭鉱で働き始めました。
2)救われて伝道者に
やがて彼は救世軍の伝道集会で救われ、その数年後結婚し24歳で夫婦一緒に救世軍に加わり、やがてメソジスト監督教会の牧師となり、伝道者として活躍しました。
3)試錬の中から誕生した讃美歌
ベナードは、伝道者としては大いに祝されたものの、同時に厳しい試練に会っていた彼は聖書に解決を求めて祈り黙想にふけっていたそうです。その彼の姿は、
詩130:1 【主】よ深い淵から私はあなたを呼び求めます。
この詩篇記者の姿そのものだったことでしょう。やがて1913年、深い淵の底から光が輝き出る様に生まれたのが「丘に立てる荒削りの The Old Rugged Cross」です。
4)召天
1958年10月9日、主は彼を85歳で天に召し、彼の十字架に代えて〈たまの冠(かむり)〉(聖歌402番、新聖歌108番)を授けて下さりました。
【2】 讃美歌誕生の(歴史的)背景
さて、この讃美歌を“生み出した”厳しい試錬とはどんなものだったのでしょう。大塚野百合氏は前掲書で二つ語っておられます。その一つは、
1)ベナードの伝道成果への嫉妬、誹謗中傷
「あなたの説教は洗練されていない、学歴がないから仕方ない。もと炭鉱夫で、学校教育をまともに受けていないのだから」と恥をかかされたことは、大いにあり得ます。
2)ベナード自身の霊的葛藤と苦悩
この事について、大塚野百合氏は次の様に記しておられます。
「伝道者として成功しているように見えた彼の内心には、大きな悩みがありました。イエス・キリストの十字架による救いを述べ伝えているのに、十字架による主イエスの贖いが、彼自身にとって、まだほんとうに魂の底において理解できていない、という苦しみでした。」(前掲書 P.132)
もう一つ、歌詞そのものから窺い知ることが出来ます。それは、自由主義神学(Liberal Theology、New Theology)との戦いです。
3)自由主義神学との戦い
ベナードが活躍した二十世紀前半は、自由主義神学と「キリスト教信仰の最重要教義の否定」が全盛期だった時代でした。ごく手短に、どんな神学かと言いますと、
1)聖書の霊感と権威を否定、
2)聖書の奇蹟を否定、
3)キリストの神性を否定し、単なる倫理的道徳的教師・模範者とし、
4)人間の罪性を軽視し、人間の自由と自律性を強調、
5)そして、キリストの贖罪死と復活を否定します。
聖書には
Ⅰペテロ2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
こう明記されているにもかかわらず、キリストの贖罪死と復活を否定するのが自由主義神学です。著名な神学者の一人メイチェン(Machen, John Gresham、1881-1937)は自由主義神学を「キリスト教以外の範疇に属し、全くキリスト教とは異なる」と批判しています。これは神学上の“勢力争い”などではありません。神の愛を、主イエスの愛を知らない、そんな神学を土台とする宗教を信じても救われないからです。まさに生きるか死ぬかを賭けた戦いです。伝道者ベナードが自由主義神学者たちと戦ったのは当然です。
しかし、現代でも少なからぬプロテスタント教会・神学者が自由主義神学の影響を受けています。
【3】 原歌詞に見る信仰告白
こんな神学が一世を風靡していた時代の最中、ベナードはこの讃美歌を高らかに歌い、「苦しみと恥の十字架」を旗印に掲げて伝道し続けたのです。讃美歌「丘に立てる荒削りの ~The Old Rugged Cross」は、聖書信仰・福音の告白と戦いの歌です。福音を自分に託して下さった神を証しし誉め讃え、人々を救いへと招く「歌う説教」です。
1)讃美歌全体の基調
ここからは、大塚野百合氏による直訳(前掲書 P.127-131)に基づく資料1と資料2を参照しながら話を進めてまいります。
まず、歌詞全体を見渡すと目立つ言葉は、「古い荒削りの十字架」です。
「古い」という言葉で、十字架の福音こそイエス・キリストによってもたらされた真の福音であり、「新しい」神学と全く相容れないことを言っています。
「荒削り」ruggedは、「粗野で洗練されていない」との意味で、「上品で素敵、かっこいい」とは正反対です。
モダンでは無く古臭いくても良い、人の歓心を買えずとも良い、ただ十字架のイエス・キリストをストレートに伝えるのだ!とベナードは歌ったのです。
青年時代を炭鉱労働者として過ごしたベナードには、文字通り「荒削り」な一面があった事でしょう。しかし、その様な経験すら主からの賜物であり、その彼だからこそ「古い荒削りの十字架」と誇りを持って堂々と歌い得たのではないでしょうか。
主イエスはこう言われました。
マタイ16:21 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
使徒ペテロは聖霊に導かれて大群衆を前に説教しました。
使徒4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
また、主イエスにより、イエスの迫害者からイエスの使徒への一大転換を経験したパウロも、
ローマ1:16 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。
ベナードも確信したことでしょう。自分の伝道メッセージが古臭くて荒削りで洗練されていないことで恥を曝してもいっこうに構わないゃないか!
主イエスも、使徒たちも経験したのと同じ「恥」を自分も味わって当然だ。十字架を述べ伝えるが故に受ける恥と非難を喜ぶ! と。
Ⅱコリント12:9-10 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。/だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
この讃美歌には純粋な福音信仰が漲っています。歌詞の一語一語は私たちの心に刻みつけられた御言葉と主イエスの御姿を呼び覚まします。これがこの讃美歌の力であり魅力です。
2)歌詞(節)を順に辿って
次に、歌詞を順に辿ってまいります。なお、歌詞行頭の番号は資料1と一致してます。
【1節】
聖書にこう書かれています。
ヘブル 12:2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
讃美歌の歌い出しは、ベナードの視野の彼方に立つ十字架へと私たちの心を向けさせます。
1-1 はるかな丘に、古い荒削り(rugged)の十字架が立っていました。
1-2 苦しみと恥(shame)の印。
1-3 この古い十字架を私は愛しています。最も愛すべきお方が、
1-4 失われた罪人のために殺された十字架を。
【繰り返し】
R-1 古い荒削りの十字架を私はこよなく貴びます。
R-2 この世の勝利の印(my trophies)を放棄するほどに。
ここで歌われる〈この世の勝利の印(my trophies)〉の意味の解釈は、次の聖句が手掛かりになるでしょう。
ピリピ3:7-8 しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。/それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。…
ユダヤ人社会のエリート中のエリート、パウロが主イエスを知る以前に誇っていた〈自分にとって得であったこのようなすべてのもの〉を、ベナードは〈この世の勝利の印(my trophies)を放棄する〉と歌っています。神の愛とキリストの愛の迫りを知って、主イエスを愛する、主の十字架を愛するベナードは、こう歌います。
R-3 古い荒削りの十字架に私は縋(すが)りつき、
Ⅱコリント13:4 すなわち、キリストは弱さのゆえに十字架につけられたが、神の力によって生きておられるのである。このように、わたしたちもキリストにあって弱い者であるが、あなたがたに対しては、神の力によって、キリストと共に生きるのである。
ベナードは、「私は古い荒削りの十字架に縋りつきます!」と、十字架の福音を恥とし自分を誇る人々を尻目にアッケラカンと歌っています、恥と苦難から完全に解放されて。
【2節】
2-1 あの古い荒削りの十字架、
2-2 世人から軽蔑されている十字架が、
2-3 不思議に私の心を奪います。
マルコ12:10 あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。
Ⅰコリント1:18 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
2-4 神の小羊が天の栄光を捨てて、
2-5 暗いカルバリに負ってゆかれたからです。
この歌詞は
ピリピ2:6-8 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、/ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、/自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
この記憶を鮮やかに蘇らせてくれます。
【3節】
3-1 神聖な血のにじんだ古い荒削りの十字架に、
3-2 すばらしい美を私は見ています。
ベナードは、血のにじんだ十字架に〈すばらしい美を見た〉と歌ってますが誤解しないで下さい。十字架そのものが美しいとは言っていません。〈すばらしい美〉とは、神の御業のことです。使徒ヨハネは十字架上の主イエスをこう記しています。
ヨハネ19:28 それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
そして主イエスの最後の言葉、七つ目の言葉をこう記しています。
ヨハネ19:30 イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。
〈完了した〉は、「なし遂げた、成就した、完成した」との勝利宣言です。ベナードが血がにじんだ十字架に見た〈すばらしい美〉とは、主イエスによって成し遂げられた救いの御業です。成し遂げられた救いの御業を〈すばらしい美〉と言っているのです。そして3節は続きます。
3-3 その古い十字架でイエスは苦しみ、
3-4 死なれたからです。
3-5 私を赦し、潔めるために。
聖書に
Ⅰペテロ2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
こう書かれているにも関わらず、キリストの贖いの死を否定する神学が今もなお存在することは驚きです。
【4節】
4-1 古い荒削りの十字架に、私はつねに忠実に生き、
4-2 その恥と非難(reproach)を喜んで負います。
4-3 主がいつか私を、遥かなふるさとに招きたまうとき、
4-4 主の栄光に、私は、とこしえにあずかります。
そして、4回目の繰り返し、
R-4 かの日にそれを冠と取り替えます。
と歌い、主が約束された〈冠〉を仰ぎ望みつつ「丘に立てる荒削りの The Old Rugged Cross」が結ばれます。
【4】 私たちに約束された「冠」
私たちの罪を一身に引き受けられた主イエスが地上で被せられたのは、いばらの冠・嘲弄の冠でしたが、私たちに約束されている「冠」の素晴らしさを、主は五通りに表現して下さっています。
1)朽ちない冠
Ⅰコリント9:25 競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
2)喜び、誇りの冠
Ⅰテサロニケ2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。
3)義の栄冠
IIテモテ4:8 あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。
4)栄光の冠
Ⅰペテロ5:4 そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠をいただくことになります。
5)いのちの冠
ヤコブ1:12 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。
そして、黙示録、
黙示2:10 あなたが受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない。〈中略〉 あなたがたは十日の間、苦難にあう。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。
私たちはハレルヤ!と叫ばずにはおられません。