岡本先生と共に味わう讃美の力(6)「善き力に囲まれて Von guten Mächten」(シンシナティ日本語教会)
「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」/〔すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた。/イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。〕 (新改訳2017)日本聖書協会『口語訳聖書』ルカによる福音書 22章42-44節
今日もご一緒に、ドイツ告白教会牧師ディートリッヒ・ボンヘッファーの詩による讃美歌 「善き力にわれ囲まれ」と聖書の御言葉が持つ恵みと力を共に味わい分かち合いましょう。
今日は、
(1)この讃美歌の作詞者ボンヘッファーの生涯
(2)讃美歌の歌詞とメロディー
(3)讃美歌歌詞と聖書
(4)「まこのと悔い改め」に与ったボンヘッファー
このような順序でお話します。なお、事前にお配りした資料を手元にご用意いただいたうえでお聞き下さることをお勧めします。なお、このホームページからダウンロード出来ます。
1.作詞者ボンヘッファーの生涯
資料1 「ボンヘッファーの生涯」 ~怒濤の歴史を生きたボンヘッファー
2.讃美歌の歌詞とメロディー
(1)歌詞・メロディー
歌詞は、様々な翻訳・節の組み合わせがあります。
第二次世界大戦終、この詩に少なくとも17人の作曲家達が旋律をつけ、世界各地で歌いつがれており、今日歌うのは、最も広く歌われているメロディーに拠っています。
(2)ところで、日本でこの曲を収録した讃美歌集は、戦後50年以上経ってから編纂されたものだけのようです。
讃美歌21-469番(1997/2)
新生讃美歌73番(2003/7/1)
教会福音讃美歌358番(2012/8/14)
当初私は、戦時中の悔恨から戦後の日本のキリスト教会がこの讃美歌を受け入れられなかったのでは、と憶測しましたが誤解でした。と言いますのは、作曲者ジークフリート・フィッツ(Siegfried Fietz、1946年5月25日~)がボンヘッファーの詩「Von goten Machten 」にメロディーを提供したのは1970年のことだからです。
なお、作曲者Siegfried Fietz自身による演奏がYouTubeにあります。
https://youtu.be/aN7dGz6NH5M
3.讃美歌歌詞と聖書
今日は、歌詞に込められたボンヘッファーの信仰と、それを培ったであろう聖書の御言葉をお話しします。
ところで、この讃美歌で何が歌われているかを一言で言うと、「まことの悔い改めと、その実りとしての平安、希望、愛」です。
ボンヘッファーが「まことの悔い改め」を経験しただろうと言うからには、歌詞の何処かに罪の自覚が滲み出ているはずです。どんな罪でしょうか?それは、1939年、ヒトラー暗殺計画に加わったことでしょう。
ゲッセマネの園での出来事が聖書に書かれています。
【引用聖句1】 マタイ 26:51-53 (新改訳2017、以下同様)
すると、イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。/そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。/それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。
ドイツ軍のポーランド侵攻以前のボンヘッファーの立ち位置は、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」との御言葉に聴従し、国家権力に対する反乱・革命を否定し、むしろそれは神の国の到来を遅延させると主張していたのです。
ところが、ボンヘッファーはヒトラー暗殺計画に加わってしまったのです。彼は、裁きを神に委ねられなかった、神が栄光を現してくださるのを待てなかったのでしょうか。先ほどのイエスの言葉と十戒の第六戒「殺してはならない」を知らなかった筈が無い彼が、ヒトラ-暗殺計画に加わったのです。
しかし、どんなに人道的政治的に素晴らしいことでも神のみ言葉に従わないことは、厳し過ぎる言い方とは思いますが、ある意味誘惑に負けた結果であり神に栄光を帰さない「軽々しい」行為なのです。
1943年別件で逮捕された彼は、隠し通している暗殺計画への関与がいつゲシュタポに知られるか戦々恐々としていたことでしょう。
※ここからは 『資料2 歌詞原語と対訳』 を参照しながらお話しいたします。なお、この資料2は 「https://note.com/efi/n/ncc4898509da2」 に拠っています。
《歌詞2節》
『善き力にわれ囲まれ』の歌詞は、逮捕から約一年半後、処刑の一ヶ月ほど前に、地下刑務所から婚約者に宛てられた獄中書簡に記されて詩がもとになっていますが、そこにはナチへの恐怖が微塵もありません。
むしろ、ダビデがサウルやアブサロムに命を狙われていた時、御前にくずおれた信仰者ダビデが歌った詩篇【引用聖句2】の“香り”すら薫っています。
彼の信仰を子どもの頃から培ってきたコラール(讃美歌)と御言葉により、彼は罪の悔い改めと救いに導かれ、自責の念とナチへの恐れから解放されたに違いありません。
なお、2節の一行目「古い年」は、「過去のこと」と訳す方が良いかと思います。
《歌詞3節》
歌詞の第3節に進みます。
この3節の歌詞から、彼がゲッセマネの主イエスを思い浮かべ、主イエスの祈りに倣って祈っていたことが伺われます。
【引用聖句3】 ルカ 22:42-44
「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」/〔すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた。/イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。〕
それと同時に、ボンヘッファーはモーセと自分とを重ねていたことでしょう。
【引用聖句5】 申命記 3:23-28
私はそのとき、【主】に懇願して言った。/「【神】、主よ。あなたは、あなたの偉大さとあなたの力強い御手を、このしもべに示し始められました。あなたのわざ、あなたの力あるわざのようなことができる神が、天あるいは地にいるでしょうか。/どうか私が渡って行って、ヨルダン川の向こう側にある良い地、あの良い山地、またレバノンを見られるようにしてください。」/しかし【主】はあなたがたのゆえに私に激しく怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。【主】は私に言われた。「もう十分だ。このことについて二度とわたしに語ってはならない。/ピスガの頂に登り、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたがこのヨルダン川を渡ることはないからだ。/ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ。彼がこの民の先頭に立って渡って行き、あなたが見るあの地を彼らに受け継がせるからだ。」
モーセは懇願しています。主の力強い御手のわざが〈しもべ〉である自分を通して示されたことを訴え、そのみわざの完結とも言える約束の地への入国を訴えたのです。
しかしこの時主はモーセの願いを聞き入れて下さりませんでした。なぜなら、モーセとアロンが主の言葉に背いて神の聖さを現さなかった、神に栄光を帰さなかったからです。その出来事は民数記に記されています。
【引用聖句6】 民数記 20:7-12
【主】はモーセに告げられた。/「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」/そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、【主】の前から杖を取った。/モーセとアロンは岩の前に集会を召集し、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」/モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、豊かな水が湧き出たので、会衆もその家畜も飲んだ。/しかし、【主】はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」
モーセとアロンは、「われわれがあなたがたのために」と言って行動したからです。たった一回、神に栄光を帰さなかっただけなのに厳しすぎるとすら感じます。
しかし、神はモーセを裁いて滅ぼすことをされず、むしろ労苦を十二分に労って下さったことが、マタイ17:3の「山上でイエスの御姿が変わった時、モーセとエリヤがイエスと語り合っていた」出来事から判ります。
ボンヘッファーは、この民数記と申命記に記されたモーセを、そしてマタイ17章の出来事を自分に重ねて祈ったに違いありません。
さらに、地下牢に収監されていた彼は、使徒行伝の出来事にも思いを巡らしたことでしょう。
【引用聖句4】 使徒 12:4-11
ヘロデはペテロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越の祭りの後に、彼を民衆の前に引き出すつもりでいたのである。/こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。/ヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれて、二人の兵士の間で眠っていた。戸口では番兵たちが牢を監視していた。/すると見よ。主の使いがそばに立ち、牢の中を光が照らした。御使いはペテロの脇腹を突いて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。/御使いは彼に言った。「帯を締めて、履き物をはきなさい。」ペテロがそのとおりにすると、御使いはまた言った。「上着を着て、私について来なさい。」/そこでペテロは外に出て、御使いについて行った。彼には御使いがしていることが現実とは思えず、幻を見ているのだと思っていた。/彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。彼らは外に出て、一つの通りを進んで行った。すると、すぐに御使いは彼から離れた。/そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、本当のことが分かった。主が御使いを遣わして、ヘロデの手から、またユダヤの民のすべてのもくろみから、私を救い出してくださったのだ。」
《歌詞4節》でボンヘッファーは、罪を赦されて命を長らえることへの葛藤を吐露し、主の御手がどう動くか天を仰いで歌って希望を繋いでいます。
《歌詞5節》
この希望は5節でも歌われています。
神から遣わされた御使いが獄中の自分たちの傍らに立ち、牢の中を光で照らしてくれるのではないか!
私を覚えて祈ってくれている同心の仲間たちと相まみえることが出来るよう神は救い出して下さるのでは!
と。
この5節のみならず、彼が愛してやまなかった詩篇119編【引用聖句7】を通して、神はボンヘッファーを慰め励まして下さったことがこの讃美歌全体から伺われます。
《歌詞6節》
この6節は、抑圧された地下牢獄内や地上の教会礼拝堂での讃美の窮状と、黙示録5:9-14【引用聖句8】で啓示された天上の讃美を視野に入れて神に祈っています。
4.「まこのと悔い改め」に与ったボンヘッファー
ここまで、ドイツ告白教会牧師ディートリッヒ・ボンヘッファーの詩を歌詞とした讃美歌 「善き力にわれ囲まれ」を取り上げ、同時に聖書の言葉に聞いて参りました。
冒頭、「まことの悔い改めと、その実りとしての平安、希望、愛」が歌われてます」と申し上げましたが、皆さま、如何でしょう。
まことの悔改めとは、自分の罪を認めて行動を変えるだけではないですね。
いっさいを神に委ね、御言葉に徹底的に服従することです。たとい「滅ぼす」と言われても、それが神の御旨ならば、神によって滅ぼされることをよしとすること、これがまことの悔改めです。
ボンヘッファーがこの「まことの悔い改め」に導かれていたことは、彼の最期を見届けた収容所の医師が証言しています。
「わたしはボンヘッファー牧師が,着ていた囚人衣を脱ぎ棄てる前に,床にひざまずいて,彼の主なる神に真摯な祈りを捧げているのを見た。この特別に好感の持てる人物の祈りが,いかにも神に身をゆだね切って,神は確かに祈りを聴きたもうという確信に溢れていたのに,私は非常に深い感銘を受けた。処刑される時にも,彼は短い祈りを捧げ,それから力強く落ち着いて,絞首台への階段を昇って行った。死はその数秒後におとずれた。私は今まで,ほとんど五〇年にわたる医者としての生涯の中で,このように神に全くすべてをゆだねて死に就いた人を見たことはほとんどなかった」
※ 「https://paperzz.com/doc/5755491/殉教者ディートリヒ・ボンヘッファー-における讃美歌と詩篇」 に掲載された横手多佳子の論文からの転載です。
この証言は、マルコ15章に記された百卒長の証言と重なります。
【引用聖句9】 マルコ 15:39
イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子であった。」
最後に、ボンヘッファーが「まことの悔い改め」に導かれていたことを、もう一つの視点からお話してメッセージを締めくくります。
ボンヘッファーは、《歌詞1節》で
Von guten Mächten treu und still umgeben,
よい力(複数)に,忠実に静かに囲まれ,
と歌い始め、《歌詞7節》
Von guten Mächten wunderbar geborgen,
よい力(複数)にすばらしく守られて,
と讃美を結んでいます。すなわちこの讃美は、「善き力」との言葉で額装した絵画の様な額縁構造を有しています。
この讃美では、獄中のボンヘッファー自身の姿を描き出すように歌われています。
そしてその姿は、主イエスが喩えで話して下さった「放蕩息子」(ルカ15章)の悔い改め後の姿ではないでしょうか。(※ボンヘッファー、イコール放蕩息子と言っているわけでは決してありません。)
悔い改めた息子は、
(1)父親に「使用人の一人にして下さい」と、“無条件”で謙っています
(2)父親により喜び迎え入れられ、罪一切を赦され、盛大な祝宴の喜びに与りました。
この讃美歌の中に姿を現すボンヘッファーも、
(1)神の御前に“無条件”で謙っています
(2)義であり愛である神に受け入れられ罪一切を赦されたからこそ、神の賜る平安、希望、愛に満ち足りて神を讃美できた。
のです。
ボンヘッファーと同じ信仰に経つ私たち一人ひとりも、「善き力」によって「忠実に静かに囲まれ」、「すばらしく守られ」ます。今日も明日も永久に変わらず私たちの主でいて下さる神を誉め讃えましょう。