7月21日の説教で、標記の詩篇を引用しながら「いつの時代も『彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい』(ルカ23:35)と嘲る。しかし主イエスは私たちを救う為に御自身を犠牲にされたのです」とお話ししました。
「破れ口」とは、直接的には城攻め等による城壁の損傷箇所のことで、一度「破れ口」が出来ると、敵の攻撃はそこに集中します。聖書で言う「破れ口」とは、人の罪、人が罪に支配された状態を指します。その「破れ口」が出来たのは、創世記の冒頭人類の祖アダムとエバがサタンの誘惑に負け、自らの意思で罪の支配に陥った時です。
その「破れ口」すなわち弱みをサタンは攻めてきます。そのサタンとは「…われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者…」(黙示録12:10)、すなわち告訴人です。
「律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます」(ローマ2:12)、「罪の報酬は死です」(ローマ6:23)とあると聖書に書かれているのだから「罪ある彼らは裁かれるべきだ」と私たち罪人を訴え続けます。
従って、私たちが滅びを免れる為には、私たちの「破れ口」を塞(ふさ)ぎ修復してサタンの攻撃を封じるしかないのです。しかし衣類の染み取りやほつれを繕(つくろ)うような具合にはいきません。
イエスは「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)です、罪無き神の御子が私たちの罪を身代わりに負って裁かれたことで私たちの「破れ口」は塞(ふさ)がれ無くなったのです。サタンが訴える口実が無くなったのです。この世界の法律でも、罪を償った人は同じ罪で二度裁かれることはありません。死刑囚であっても死刑執行後息を吹き返せば無罪放免です。人の心はそう単純ではありませんが。
神は、イエスによって私たちの「破れ口」を塞(ふさ)いで下さりました。それだけではありません。イエスをよみがえらせたことでサタンに完全勝利され、イエスを救い主として受け入れる私たちをも、終わりの日の完全勝利のうちに天の御国によみがえらせて下さいます。
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