痛ましい事件が頻発する昨今です。しかし、たいていは私たちにとって“遠いところの出来事”なので、当事者の方々に思いを馳せることがほとんどありません。
ところで、先月六月中旬、以前から親しくしている素敵な老夫婦の奥様が、その日ぽつんと「悲しいことを話せる方はなかなかいないですね」とおっしゃったのです。何のことだろう?と思い巡らしていると、「“こないだの事件”で、我が子のように可愛がっていた親族が被害に遭い葬儀に行ってきました」等々話して下さいました。
私が牧師だと知ってたので、とのことでした。それからは、その老夫婦と私との“距離”がグッと近くなったように感じています。
私の場合、悲しみや辛さを聞かせていただくことはあっても、公私を問わず私の悲しみや辛さを人に話すことは希です。立場上、あるいは性格的なこともあるでしょうが、人に話しても慰められないことをいっぱい経験していることが一番の理由かと思います。
慰めを否定するつもりは毛頭ありません。しかし、上辺だけ同情され優しい言葉を掛けられても、実際にはなんの力にもならないことが殆どです。また、“正論”をもって理路整然とたしなめられても、“傷に塩を擦り込まれる”ようで心がいっそう重くなることもしばしばで、酷い場合は“尾ひれはひれ”付けた噂話のタネにされました。
そのような私が凹(へこ)む時、思い浮かべるメロディーと歌詞がいくつかあります。その筆頭格は、J.S.バッハのカンタータ21番「わがうちに憂いは満ちぬ」の第9曲(合唱とコラール/讃美歌304番)です。次いで、黒人霊歌「Nobody knows the trouble I've seen(誰も知らない私の悩み)」(讃美歌第二編210番)です。
いずれも私の心を主イエス・キリストに向けて飛翔させてくれます。標記の御言葉「(イエス)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれた」の通りだからです。
「世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)
主イエスに、祈りを通して心置きなく語りかけ、御言葉を通して天からの慰めに与り、時宜に叶って神の最善の御業に与れる私たちはしあわせです。
