誰の言葉を聞くか、誰を相談相手とするか。これは人生を左右します。そこで今、自分に問うてみましょう、「一体、わたしは誰の言葉を聞き、誰の言葉に従っているのだろうか」と。
聖書に記された歴史は、相談相手選びの大切さを教えています。ちなみに、有名なソロモン王の後を息子レハベアムが継いだ時、国民の代表者たちが“軛(くびき)”の軽減を王に願い出ました。三日後の回答を約束した王は、まず、父に仕えた長老たちの意見を聞きました。しかし「民の申し出を聞き入れるように」との助言を快しとせず、若い側近たちの意見に従い、従前以上に重い軛を課す旨民に告げました(歴代志下10章)。このレハベアムのひと言でダビデにより統一された王国は分裂し、後の滅亡へと至ったのです。
また、旧約預言者エリヤが活躍した時代に国王に即位したアハジヤは、アハブ家の出である母と、その家の者を相談相手にしました。
人は、地位や財産ができたり、権力を持つと、他人の言葉に耳をかすことを好まず横暴なふるまいをしがちです。しかしアハジヤはその点では懸命だったようです。しかし彼は相談相手に選ぶことにおいては実に思慮が浅く、そのために「彼はついに自分を滅ぼすに至った」(歴代志下22章)のです。アハブ家を興したアハブと妻イゼベルは非常によこしまで邪悪でした。彼らの不正を激しく責め、彼とその妻と王朝の末路を預言したエリヤの命をも狙ったのでした。
聖書は、「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」(ローマ10:17)と教えていますが、私たちはどれだけキリストの言葉に聴いて、具体的な生活とのかかわりを持っているでしょうか。金言や格言として尊ぶだけなら「絵に描いた餅」にすぎません。御言葉を相談相手にするとは、御言葉が厳しく私たちの常識と相反するものであろうとも、それを是とし、それに従うことです。主イエスは言われました。
「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。/命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」(マタイ7:13-14)
主を私の相談相手にするのは生易しいことではありません。しかし、これが命にいたる唯一の道であるならば、主の御言葉を相談相手として頼り続けたいものです。
