聖書は私たち人間についてこう言います、「…あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない」(ヤコブ4:14)と。その一方で、「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」とも言っています。不思議な矛盾ですが、ほとんどの宗教が“永遠”に執着するのは、創造者なる神が「人の心に永遠を思う思いを授けられた」からです。
そこで、どうしたら「永遠を思う思い」、永遠への思慕(しぼ)が満たされるかということに焦点をあててみましょう。そこでまず、〈永遠〉について岩波国語辞典を引くと「無限に遠い未来まで時間的持続の際限のないこと。哲学で、時間を超越し、過去・現在・未来を通じて存在すること」とあります。つまり永遠は無限(∞)であって、有限なものをいくら繋いでも集積しても及ばないのです。地上的なもの、人間が造り出したもの(いわゆる宗教、哲学も例外ではありません)は、すべて有限なものです。ですから、人間が造り出したものによっては永遠への思慕は決して満たされないことが判ります。地上的なもので永遠への思慕を満たそうとすればかえって空しくなるだけです。はかなく有限な私たち人間の能力によっては永遠なるものを獲得できません。まことに遺憾(いかん)なことですが、医療・介護技術が如何に発達しようとも、何物にも代え難い人の命は有限なのです。
では、なぜ神は「人の心に永遠を思う思いを授けられた」のでしょう。それは、永遠の命を真剣に求める人々に神が授ける為です。ヨハネによる福音書1章14節にこうあります。「言(ことば、※御降誕以前のキリストを指す)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」。このイエス・キリストを信じる人に神(父なる神)が永遠の命を与える為です。
イエス・キリストは、人間に祭り上げられて永遠の存在、神になったのではありません。永遠なる神がキリストにおいて人となられたのです。神は永遠の命そのものを与え、有限の命を生きる私たちの永遠への思慕を満たし、今の肉体が塵に帰れば天の御国で新しい肉体を授けて永遠の生を喜ばす為に、イエス・キリストにより道を備えて下さりました。
この世の思い煩いや有限なもの執心して、永遠への思慕を忘れたりキリストへの信仰が失われることがあってはなりません。
