元気なうちは、生きていることは当たり前のことで気にもとめません。しかし、死が近づいてくるのを感じると、元気で生きていることの有り難みを痛感するようになります。
私事で恐縮ですが、94歳になったばかりの母が三月末肺炎で入院しました。肺炎自体は治癒しましたが、点滴の自己抜去を繰り返し、体力も消耗して医者からは厳しい言葉を告げられました。鼻カニューレ(鼻用酸素吸入チューブ)を付けて静かに寝ている母が忍びなく、思わず母の頭に手を置いて祈りました。「もうちょっとだけでもいいですから時間を下さい。母はあなたのこと殆ど知りませんが、イエス・キリストを救い主と信じて救われる為の時間を下さい。イエス様の御名によって祈ります。アーメン」。すると、「アーメン」とハッキリした声で母が言ったのです。驚いて母を見ると、しっかり目を開いて私を見ているんです。
母は、私の受洗以来およそ40余年の間、私をけなしこそすれ全くキリスト教信仰に無関心、イエス・キリストへの信仰によって与えられる救い、いのちについて何度話しても全く馬耳東風でした。その母が私の祈りに「アーメン」と唱和したのです。「溺れる者は藁(わら)をも掴む」、切羽詰まった時は助かりたい一心でどんなものにもすがりつき、救いを求めることのたとえですが、この時の母の目は違いました。
この時、タイトルの聖書の光景が鮮やかによみがえりました。そして、母も主に受け入れられたことを確信し、主であられる神を誉め讃えました。
それから10日ほど経過した母ですが、未だ酸素は取れません。しかし、食事も日常の活動もほぼ以前の状態に戻りました。あとどれだけ地上で生きられるかは判りませんが、その時間は母が授けられた救いの確かさ、素晴らしさ、喜びを味わう為の時間です。
「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」(ローマ10:17)
どうか、命の危機に瀕している方々が、生きることを諦めないで福音を聞いて救われていただきたいのです。
