伝道の書は、虚無的な言葉を多用ながら人生の目的・生きる意味を問いつつ、間接的に神の存在とその神に対する信仰の必要を説いています。
この聖書箇所は、“一寸先すらも分らぬ人間だが一つ確かなことがある。それは死だ。善人も悪人も、神を畏れる人もしない人も、みな同じく死ぬ。それは、あらゆる人生の営みの中で最も悪い”と言っています。全くその通りだと思います。
仏教は、最初の小乗仏教においては善因善果、悪因悪果が鉄則だったそうです。しかし、現実の世の中はなかなかその通りにはならない。そこから、やがて大乗仏教が生まれ、それが我が国では鎌倉時代にさらに進展して、法然、親鸞の念仏宗にまでいたりました。善因善果、悪因悪果ではなく、ただ阿弥陀如来の本願力に寄り頼むこと(他力本願)で救われると。
しかし伝道の書はこう結論づけています。「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。」(伝道の書12章13-14節)。
私たちは、ルカによる福音書の御言葉に連続して聞いてきました。21章では次のことを学びました。「終わりの日」は突然万民に等しく必ずやってくること、その時は単にこの世界の消滅ではなく“万物が更新される”時であること、万民はその“最後の審判”によって「祝福された永遠の命」か「呪われた滅び」かのどちらかに分かたれて生前の報いを受ける、と。すなわち、「すべての人に臨むところは、みな同様」ではなく、神の正義と公平がもたらされます。私たちの人生という“短い物差”ではなく、天地万物の創造から終わりの日の再創造に至る“神の物差”で物事を考えましょう。ここに私たちキリスト者の望みがあります。 