クリスマスについて「きょう」と言われてます。聖書の「きょう...」という言葉は、昨日、今日、明日と言った日常的な時間の流れを超越した特別な日、すなわち神が予め定めておられた、予定されていた「その日」、特別な時間を言います。
また、その“時間”について伝道の書にはこう書かれています。「生(うま)るるに時があり、死ぬるに時があり…」(伝道の書3:2)。誕生と死亡という人生における最大の出来事にも神の定められた時がある、と聖書は教えています。後半の言葉には冷酷な響きがある一方、死も神の御手のうちにあることに気付いて慰められもします。ですから、イエス・キリストの御降誕クリスマスも十字架上の死も、神のご計画通りです。
ところで、クリスマスを凡そ一ヶ月後に控えた日、106歳の兄弟を天の御国にお送りしました。
ハッキリと私の記憶に刻みつけられている故人の言葉がいくつかあります。その一つが「大事にしなければならないことは Punctuality(パンクチュアリティ)だ」です。時間と約束の厳守と几帳面さの大切さについて、当時新米牧師の私が説教を長引かせ礼拝終了を遅らさないようにと叱咤激励して下さった言葉です。
ところで、故人の御生涯を回顧しながら葬儀式説教を準備しているうちに気付いた事ですが、“Punctuality”、時間厳守とは故人自身が貫かれた信念でもありました。
100歳を超え、介護を受けねば何も出来ない肉体で「生きるのは大変なことなんだよ」としみじみと語って下さることはあっても、愚痴は何一つこぼさず、地上を去るのもよみがえらされるのも“時間厳守”される神の御業を望み見ておられました。
冒頭申し上げましたが、クリスマスは私たちの救いの御業を神が時間厳守してくださった出来事です。そして、「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない」(ヘブル10:37 )と書かれているとおり、終わりの日も神は時間厳守されます。私たちの救いを“時間厳守”して下さる神を誉め讃えつつ、今年もクリスマスを共に喜びお祝いしましょう。
