9月16日は敬老の日です。老年に入る年頃を「初老」と言い、四十歳からだそうです。平均寿命が延びた現代はもっと遅くても良いでしょう。この初老を境に、それまでグングン人生を上り詰めてきた人でも、その後は老いの坂道を転げ落ちるようだと世間では言われます。階段を踏み外すようだと表現する方もおられます。旧約聖書の伝道の書12章は、老化による身体的機能の衰えを客観的かつ詩的に淡々と記しています。
ところで、讃美歌284番の4節では
老いの坂をのぼりゆき、
かしらの雪つもるとも、
と歌っています。ここで注目したいのは、私たちの人生観ではなく「神は、老いの坂はのぼるものなのだと言っておられる」と歌っていることです。老人になっても現実は厳しく肉体的労苦も絶えないのは肉体を持つ者の定めなんだから忍耐しなさい、と言うことだけかと思いきや、そうではなさそうです。続く4節後半では、
かわらぬわが愛におり、
やすけくあれ、わが民よ。
「老いてもなお私の愛に信頼し、愛に留まりなさいと、神は励ましておられる」と歌っています。
老いの坂を上る者への励ましは、ヘブル人への手紙12章10-11節にも記されています。
「肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。/すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」
そればかりか神は、私たちの老いは孤独ではなく、空しく潰えもしないと言われます。
「…生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。/わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」(イザヤ46章3-4節)