今、アメリカでは大統領選の候補者指名争いが繰り広げられ、舌戦の凄まじさには圧倒されます。この様な時こそ、古代中国の哲学者老子が言ったとされる「真理は沈黙している」(語ることが出来るものは真理ではない)との言葉を思い出します。なぜなら、声高に真理や正義が語られる時は要注意で、それは空疎や欺瞞を隠した偽装であることが歴史上しばしばあったからです。
「沈黙は金」という諺(ことわざ)もありますが、有名なアインシュタイン博士は、自身が考案した「人生に成功する為の最上の方程式」について、こう語ったそうです。「A=X+Y+Z、人生の成功をAとすれば、Xは仕事、Yは遊びじゃ」。そして、「Zは口を閉じること、沈黙じゃよ」と。アインシュタインは『考える時間』を重要視したので、この沈黙とは“考える時間”のこと解釈されています。
さて、主イエスが十字架につけられる前に裁判を受けられた時のことです。
「そこで大祭司が立ちあがって、まん中に進み、イエスに聞きただして言った、『何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか』。しかし、イエスは黙っていて、何もお答えにならなかった。…」(マルコ14:60-61)
沈黙をもってむしろ深いものを語り伝える、そういう世界があるのです。詩篇にもあります。
「話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。…」(詩篇19:3-4)
沈黙すること、それは叫ぶこと以上に深く広く周囲に及んでいくもののようです。姦通の現場で捕らえられた女性を人々が主の前に突き出し、怒号、叫び声をあげている中、イエスは沈黙してかがみ込み、指で地面に何かを書いておられました(ヨハネ8章)。
あなたは、“沈黙する”御言葉から何を聞き何を思い巡らしますか。