日本の正月の風習に、最近では廃(すた)れつつあるように感じますが、門松を飾ることがあります。「松」は古来から、神々が降り来るのを「待つ」木とされ、正月の門松は、歳(とし)神(がみ)や神々が到来するのを喜んで待つということらしいのです。
ところが、この待つことが苦手なのが現代人の特徴のようです。券売機やレジでモタつく人を心の中で罵(ののし)り、もたつく車列の中や医院の待合でイライラし、レストランで注文した物が遅いと文句を言い...いつの間にか待つことのできない人間になっているようです。また、育児中の親たちの中には、子どもの成長をじっと待つことができず、子どもたちに対する虐(ぎやく)待(たい)や折(せつ)檻(かん)が深刻化しています。世界では、公平・平和を忍耐強く待ちきれず過激な行動に走ったり、諦めて現実逃避したり自分だけを守ろうともします。待つことができないのには様々な理由があり、そう簡単に説明することは出来ないでしょう。
有名な、いのちの詩人とも称される相田みつをさんの詩に、「待ってもむだなことがある。待ってもだめなこともある。待ってむなしきことばかり。それでもわたしはじっと待つ」という詩があります。また、御子イエス・キリストを私たちの世に遣わして下さった神は、御業を待ち望む私たちを心に掛けて、こう奨励されます。
「この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。」(ハバクク2章3節) 「だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。」(ヤコブ5章7節) 私たちは、この神の約束を忍耐して待ち望みつつ、共に御国に向かって前進して行きましょう。