今年も実りの秋がやって来ました。タイトルの「収穫(実り)」という言葉は、新約聖書だけでも何十回も使われ、讃美歌にも「収穫感謝」という区分があります(422~425番)。
ところでこの時期になると、ハロウィンが賑わいを見せます。これは古代ヨーロッパに起源を持ち、キリスト教とは全く無関係な異教の祭儀で、「秋の収穫を祝う?悪霊を追い払う?楽しければ良いじゃないか!」とばかり、仮装してはしゃぐ行事になって来ている観があります。
しかし、このことは、聖書が告げる「収穫(実り)」の意味を見失わせかねない非常に困った事です。聖書の「収穫(実り)」には、ぶどう園や畑などから取れる様々な「実り」という意味もありますが、信者未信者を問わず私たち一人ひとりに深く関わる大切なメッセージが込められています。
(1)神が人を養う恵みの手段としての「収穫(実り)」
この意味は、冒頭の聖句や「主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。」(申命記11:14~15)で明瞭です。つまり、①収穫・実りは、単なる“自然”の産物ではなく神の恵みであって、②収穫の喜び感謝は、天地万物を創造し統べ治めておられる神に向けられるべきものです。
(2)終わりの日の裁きとしての「収穫(実り)」
「収穫」がすべての人を養う手段であったのと同様、やはりすべての人に関わる重大事を暗示しています。聖書に、「だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。」(ヤコブ5:7)とあるように、「収穫(実り)」とは、主の再臨・終わりの日の裁き(報い)を指し示す言葉です。
(3)福音宣教の成果としての「収穫(実り)」
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」(ガラテヤ5:22-23)では「成果・結果」という意味で使われ、宣教活動の結実としての教会が、また救われた私たちキリスト者こそ「収穫(実り)」です。
実りの秋を迎え、大地の豊穣を願うともに、自分自身の良き“実り”に励み、また感謝し、終わりの日の“収穫”を待ち望みましょう。