最近私が読んだ『失われた物語を求めて』(レイチェル・ナオミ・リーメン著)に次の様にありました。「人が集まるのは、集まることで互いに癒(いや)しあえるからだ。人は、話を聞いてもらうことで癒(いや)され、人の話を聞くことで苦しんでいるのは自分だけではないのだと知って癒(いや)される」。このことは、私たち教会員にとっても、様々な事情で孤立している人々にとっても“真実”です。
また、『愛するということ、愛されるということ』(レオ・バスカリア著)には、主にある交わりの素晴らしさ、祈れることの恵みを思い起こさせる詩が紹介されていました。
私の話を聞いて下さいと頼むと あなたは助言を始めます
私はそんなことを望んではいないのです
私の話を聞いて下さいと頼むと あなたはその理由について話し始めます
申し訳ないと思いつつ 私は不愉快になってしまいます
私の話を聞いて下さいと頼むと あなたは何とかして私の悩みを解決しようとします
おかしなことにそれは私の気持ちに反するのです
祈ることに慰めを見出す人がいるのは そのためでしょうか
神は無言だからです 助言したり調整しようとはしません
神は聞くだけで 悩みの解決は自分に任せてくれます
だからあなたも どうか黙って私の話を聞いて下さい
話をしたかったら 私が話し終わるまで 少しだけ待ってください
そうすれば私は 必ずあなたの話に耳を傾けます
確かに私たちは、苦しいこと、悲しいこと、迷っていることなどをただ聞いてもらうだけでも、癒(いや)されたり、気持ちの整理ができたり、もう一度頑張ってみようかと考えることができるようになります。これが信徒の交わりの素晴らしさです。そして、私たちが祈る時にじっと耳を傾けて下さる「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり」ます。