岡本牧師と共に味わう讃美の力 (第40回) 讃美歌第75番「ものみなこぞりて」All Creatures of Our God and King
148:1 ハレルヤ。天において【主】をほめたたえよ。いと高き所で主をほめたたえよ。
148:2 主をほめたたえよすべての御使いよ。主をほめたたえよ主の万軍よ。
148:3 日よ月よ主をほめたたえよ。主をほめたたえよすべての輝く星よ。
148:4 天の天よ主をほめたたえよ。天の上にある水よ。
148:5 【主】の御名をほめたたえよ。主が命じてそれらは創造されたのだ。
148:6 主はそれらを世々限りなく立てられた。主は去りゆくことのない定めを置かれた。
148:7 地において【主】をほめたたえよ。海の巨獣よすべての淵よ。
148:8 火よ雹よ雪よ煙よ。みことばを行う激しい風よ。
148:9 山々よすべての丘よ。実のなる木よすべての杉よ。
148:10 獣よすべての家畜よ。這うものよ翼のある鳥よ。
148:11 地の王たちよすべての国民よ。君主たちよ地をさばくすべての者たちよ。
148:12 若い男よ若い女よ。年老いた者と幼い者よ。
148:13 【主】の御名をほめたたえよ。主の御名だけがあがめられる。その威光が地と天の上で。
148:14 主は御民の角を上げられた。主にある敬虔な者すべての賛美を主の近くにいる民イスラエルの子らの賛美を。ハレルヤ。
(詩篇148:1-14 、 新改訳2017)
日本聖書協会『口語訳聖書』詩編 148編
まえがき
資料1 「略解」にも書きましたが、この愛すべき讃美歌の歌詞は、動物と環境の守護聖人アッシジの聖フランチェスコにより1225年頃書かれた〈太陽の賛歌〉がパラフレーズされたものです。
今日の集会は、作詩から奇しくもちょうど800年です!
彼は「小鳥に説教する聖フランチェスコ」という有名な逸話を残し、映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」の主人公にもなりました。この〈太陽の賛歌〉では、文字通り、天地万物を創造された神の被造物、太陽や月・星、風や大気、清い空や水、日や光、そして夜を取り上げて創造主を讃えています。
余談ですが、その頃の日本は鎌倉時代で、『新古今和歌集』(1205年)、平家物語(13世紀前半)が成立し、宗教面では道元が中国から曹洞宗を伝えました。(1227年)
この詩が現在の讃美歌のメロディと組み合わされたのは 20世紀に入ってからです。大元のメロディーは、あの30年戦争勃発から5年後の1623年にドイツで出版されたイースターの賛歌がベースになっており、20世紀に入ってヴォーンウィリアムズによって和声付けされました。この讃美歌のメロディが フランチェスコの詩と組み合わされて今日に至っています。
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♬~ 〈太陽の賛歌 〉前半①-⑨
※この丸付き数字は、丸付き数字は資料2-3記載の 〈太陽の賛歌〉 に岡本が便宜上付記したものです。
この4月に私は白内障の手術をしたことでハッキリ見えた景色の美しさに感動しましたが、聖書はこう言います。
_†_① ローマ1章20節 _†_
1:20 神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。
この「神の永遠の力と神性」を被造物を通してはっきり認める事が出来る人は幸せだなあとつくづく思います。と言いますのは、
_†_ ⑧ ヘブル12:2-3 _†_
②創世記1:31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。
これほど素晴らしいものを実際に目で見て、全身で感じられるんです。
詩篇記者たちは「ハレルヤ!」と主をほめたたえました。
_†_ ③詩篇148編1から6節 _†_
148:1 ハレルヤ。天において【主】をほめたたえよ。いと高き所で主をほめたたえよ。
148:2 主をほめたたえよすべての御使いよ。主をほめたたえよ主の万軍よ。
148:3 日よ月よ主をほめたたえよ。主をほめたたえよすべての輝く星よ。
148:4 天の天よ主をほめたたえよ。天の上にある水よ。
148:5 【主】の御名をほめたたえよ。主が命じてそれらは創造されたのだ。
148:6 主はそれらを世々限りなく立てられた。主は去りゆくことのない定めを置かれた。
フランチェスコも、「神の永遠の力と神性」を被造物を通して実際に目で見、全身で感じて、この詩篇記者と一つ思いになり、主をほめたたえたのです。
また、主イエスは山上の説教で、こう言われました。
_†_ ④マタイ6:26-31 _†_
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
6:28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
ここでは、鳥や野の花はただのちっぽけな存在ではなく、神が良しとされた素晴らしい被造物の一つだよ、そして私たち人間は、主の目にずっと価値ある存在なんだよ、とイエス様は言われてます。ですから、
6:30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。
6:31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。
フランチェスコは、説教を聞く聴衆の中に居るかの如く、主イエスに共感して神を誉め讃えずにおられなかったのでしょう。
(あなたが創造して下さった)大地は、私たちを養い、治め、さまざまの実と色とりどりの草花を生み出します。
〈太陽の賛歌 〉⑨
ところで、ここで歌われる美しい情景に私たちはうっとりしてばかりおられないのです。
二、三、簡潔に申し上げますと、
まず、あらゆる被造物を利用して、サタンは私たちを偶像礼拝へと誘うことです。神は警告しておられます。
_†_ ⑤申命記4:16 -19 _†_
4:16 堕落して自分たちのために、どのような形の彫像も造らないようにしなさい。男の形も女の形も。
4:17 地上のどのような動物の形も、空を飛ぶ、翼のあるどのような鳥の形も。
4:18 地面を這うどのようなものの形も、地の下の水の中にいるどのような魚の形も。
4:19 また、天に目を上げて、太陽、月、星など天の万象を見るとき、惑わされてそれらを拝み、それらに仕えることのないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、【主】が天下のあらゆる民に分け与えられたものである。
次に、私たち人間は 神から託された特権と責任に背いていること、背任の罪です。聖書にこう記されてます。
_†_ ⑥創世記1:27-28 _†_
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。
1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」
神は、ご自身の創造物を支配し治めるわざに、人類を神の代理として参与させて下さりました。
ところが、現実はどうでしょうか。いまや絶滅危惧種ばかりか、地球環境も人類も、破滅の危機に瀕しています。
フランチェスコは動物と環境の守護聖人だと言われます。その彼が現代社会を見るならば、どれほど嘆き悲しむことでしょう。そして、かつてバビロン捕囚とエルサレム滅亡の警鐘を鳴らした旧約預言者と同様、現代人に悔い改めを強く迫ることでしょう
そうです、現代にあって、この讃美歌は預言者的な働きをしています。
人類がこの讃美歌を如何に厳かに奏して華麗な礼拝を捧げようとも、被造物の現実から目を逸らし悔い改めないなら、その様な讃美を礼拝を神は喜ばれないでしょう。
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♬~ 〈太陽の賛歌 〉後半⑩ー⑭
前半は、神の創造物、もっぱら自然界に現された神の栄光が讃えられました。
後半に入ると、神の姿に似せられて創造された人間の現実、人間フランチェスコ自身の現実、すなわち、病い・苦難・堅忍そして肉体の死と言う現実、を見据えて神を讃美しながら、「あなたもキリストに聞き従い神を誉め讃える人生を送ろう」と招いています。
これは、若き頃の自由奔放で裕福で豪奢な生活の虚しさと、キリストに招かれ従った喜びと堅忍の証しであると同時に、人生の馳場を終えようとしていた自分自身への励まし、また慰めです。それ故、彼は同志に「そばにいてこの賛歌を歌い続けて欲しい」と頼んだのでしょう。
ところで、この⑩-⑬の詩からは、かすかな声が聞こえて来ませんか。
御子イエスの到来を待ち望む呻き声です。
_†_ ⑦ローマ8:18-27 _†_
8:18 今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。
8:19 被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。
8:20 被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。
8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。
8:22 私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。
8:23 それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。
8:24 私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。
8:25 私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。
8:26 同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。
8:27 人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。
御子は必ず再び来て下さります。フランチェスコも「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずか」るその時、よみがえりを待ち望みつつ呻きながらこの詩をもって主を誉め讃えたのです。
⑫⑬
それゆえフランチェスコは、誰も免れられない肉体の死を通してすら神を誉め讃えています。そして「第二の死が、人々をそこなうことはない」と歌います。
⑭ 私の主をほめ、称えなさい。
主に感謝し、
深くへりくだって、主に仕えなさい。
これは、終わりの時のよみがえり、すなわち万物再創造の完成を望み見た預言でもあります。
_†_ ⑧黙示録19:5-6 _†_
19:5 また、御座から声が出て、こう言った。「神のすべてのしもべたちよ、神を恐れる者たちよ、小さい者も大きい者も私たちの神を賛美せよ。」
19:6 また私は、大群衆の声のような、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のようなものがこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。
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結び
ところで讃美歌75番の歌詞(資料2-1)と、フランチェスコの原詞(資料2-3)とを比較すると、訳詩者の中山昌樹氏は、①から⑨を讃美歌75番の第1~3節に、⑩から⑭を第4節、
讃美歌75番4節
世の悩みも死も いかで恐るべき、
ハレルヤ、ハレルヤ。
たがいに助くる 心を賜いし
みかみをたたえよ、
ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ。
にパラフレーズしたと考えるのが自然です。
私の独断ですが、この時中山氏はフランチェスコに思いを馳せつつ、次の聖書箇所を意識して訳詩されたのではないでしょうか。
_†_ ⑨⑩箴言14:31-32 _†_
(新改訳2017)
14:31 弱い者を虐げる者は自分の造り主をそしり、貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う。
14:32 悪しき者は自分の悪によって押し倒されるが、正しい人は自分の死の中にも逃れ場がある。
(リビングバイブル)
14:31 貧しい人をいじめるのは、 その人たちを造った神をさげすむこと、 貧しい人を助けるのは神をほめたたえることです。
14:32 神を信じる人には、 死ぬ時にも心の拠り所がありますが、 悪者は罪に押しつぶされます。
ちょうど日本では今日が受難日です。そして次の聖日イースター。私たちの主なる神様は、
_†_ ⑪マタイ5:9 _†_
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
この山上の説教の言葉がただのスローガンではなく真実であることを、神は十字架の贖いとよみがえりにより明らかにして下さりました。
_†_⑫Ⅰヨハネ4:17-18 _†_
4:17 こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。
4:18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。…
さあ、私たちも、主をほめ称えましょう。主に感謝し、謙って主に仕えましょう。