岡本牧師と共に味わう讃美の力 (第42回) 2025年7月(17)18日 JCCC讃美(42) 聖歌570番 「雨をふりそそぎ」 There shall be showers of blessing ~シンシナティ日本語教会主催

岡本牧師と共に味わう讃美の力 (第42回) 2025年7月(17)18日 JCCC讃美(42) 聖歌570番 「雨をふりそそぎ」 There shall be showers of blessing ~シンシナティ日本語教会主催

わたしは、彼らにも、わたしの丘の周りにも祝福を与え、時にかなって雨を降らせる。それは祝福の雨となる。日本聖書協会『口語訳聖書』エゼキエル書 34章26節



 ■ まえおき
日本には雨の情景を美しく表現する文化があり、400以上もの表現呼び名があるそうです。
その雨は、旧約聖書では専ら豊穣や神の養いと祝福の象徴、新約聖書では聖霊の働きと霊的渇きの癒しの象徴です。このことを見事に歌い上げた讃美歌が今日取り上げる聖歌570番「雨を降り注ぎ」 There shall be showers of blessingです。
作詞者D.W.ホイットル(1840-1901)はこう語ったそうです。「メッセージのない讃美歌は決して書きたくない。讃美歌は神の言葉に基づき、神の愛のメッセージを伝えるものでなければならない」と。この言葉通りの珠玉の名作を御言葉と共にご一緒に味わってまいりましょう。


 ■ 一節
 雨を降り注ぎ 恵み給うと
 神は愛をもて 誓い給えり

 There shall be showers of blessing:
 This is the promise of love;
 There shall be seasons refreshing,
 Sent from the Savior above.

〈There shall be showers of blessing〉、一節から四節で繰り返されるこのフレーズは、旧約聖書エゼキエル34:26に記された神の言葉です。

 _†_ ① エゼキエル34:23-27 _†_
〈KJV〉 34:26 And I will make them and the places round about my hill a blessing; and I will cause the shower to come down in his season; there shall be showers of blessing.

日本語訳(新改訳2017)聖書では、

34:26 わたしは、彼らにも、わたしの丘の周りにも祝福を与え、時にかなって雨を降らせる。それは祝福の雨となる。

とあります。この約束が与えられたのは、
紀元前597年の第一次バビロン捕囚から5年後、その捕囚の地バビロンで預言者として召されたエゼキエルを通してでした。
34章23-24節では、ひとりの真の牧者による群れの回復、すなわちまことの羊飼イエス・キリストによる救いが暗示され、25-27節では「ひとりの牧者」が賜る祝福を、乾ききった大地に降り注ぐ夕立になぞらえてます。

この恵みの約束のことば、〈There shall be showers of blessing〉 「雨を降り注ぎ 恵み給う」が繰り返し歌われ御言葉の説教がなされる時、人々は食い入るように福音に耳を傾けたことでしょう。


 ■ 繰り返し
 夕立(ゆうだち)のごと 天(あま)つ恵みを
 イエスよ今ここに 注ぎ給えや

 Showers of blessing,
 Showers of blessing we need:
 Mercy-drops round us are falling,
 But for the showers we plead.

この繰り返しで、「私たちは恵みの滴りを日々いただいております。ですが土砂降りのような恵みを頂きたいのです」と主に切々と訴えています。
ここで少々横道に逸れますが、この歌詞から思い出す福音書の記事があります。それはマタイ15章に記された一人の母親と主イエスの遣り取りです。母親は「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。」(マタイ15:22)と叫び続けますが、なぜか主イエスはまともに取り合いません。そこで彼女は「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」(マタイ15:27)と訴えました。このとき、主イエスはその母親にこう答えられました。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」(マタイ15:28)

エレミヤ14:22 には、次のようにあります。

 _†_ ② エレミヤ14:22 _†_
14:22 国々の空しい神々の中に、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立(※showers)を降らせるのでしょうか。私たちの神、【主】よ、それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたが、これらすべてをなさるからです。」

私たちはこの信仰に立つからこそ 〈Showers of blessing, Showers of blessing we need 〉と高らかに讃美できるのです。


 ■ 二節 
 雨を降り注ぎ 強き音もて
 眠る民の目を 覚まし給えや

 There shall be showers of blessing,
 Precious reviving again;
 Over the hills and the valleys,
 Sound of abundance of rain.

〈Precious reviving again〉〈Sound of abundance of rain〉との歌詞は、旧約聖書における歴史的大事件の一つ、列王記上18章に記された出来事の記憶を呼び覚まします。

 _†_ ③ 列王記上18:41-45 _†_
〈KJV〉 18:41 And Elijah said unto Ahab, Get thee up, eat and drink; for there is a sound of abundance of rain.

18:41 エリヤはアハブに言った。「上って行って、食べたり飲んだりしなさい。激しい大雨の音がするから。」
18:42 そこで、アハブは食べたり飲んだりするために上って行った。エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔を膝の間にうずめた。
18:43 彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海の方をよく見なさい。」若い者は上って、見たが、「何もありません」と言った。するとエリヤは「もう一度、上りなさい」と言って、それを七回繰り返した。
18:44 七回目に若い者は、「ご覧ください。人の手のひらほどの小さな濃い雲が海から上っています」と言った。エリヤは言った。「上って行って、アハブに言いなさい。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。』」
18:45 しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。…

この大事件の詳しい話は別の機会とし、今回はごく簡潔にとどめます。

旧約聖書を読んで気づかされることの一つは、エジプトを脱出した神の民が約束の地に入ろうとしたその時からバビロン捕囚に至るまで何世紀にもわたって、偶像バアルとの熾烈な闘いが続いたことです。
ダビデ・ソロモンと続いた王国がソロモンの死後(紀元前931年頃)南北に分裂し、その後登場した王の中で最も邪悪だったのがアハブとその妃イゼベルです。国民を欺き偽りの神バアルを礼拝させ、主に従う者が根絶やしにされたかのように見えた時、主は預言者エリヤを用いて、ご自分のみが唯一の真の神であることを現し、バアル信仰に麻痺してしまった民を目覚まさせる出来事、それがこの列王記上18章に記されています。

聖歌570番歌詞「眠る民の目を覚まし給えや」は、霊的覚醒を促す神のみわざを端的に言い現した見事な翻訳です。


 ■ 三節 
 雨を降り注ぎ 神の言葉の
 変わりなきことを 示し給えや

 There shall be showers of blessing:
 Send them upon us, O Lord;
 Grant to us now a refreshing,
 Come and now honor Thy Word.

この三節では、一節にも出てきた〈refreshing〉という単語に焦点を当てます。
refreshという言葉は私たちの日常とても馴染み深い言葉です。教会でも聖書を読むと心がリフレッシュされるといったように使われます。
ところが意外なことに、作詞者が用いたであろう聖書KJVでは、〈refresh〉は16箇所、〈refreshing〉に至っては僅か2箇所しか出て来ず、何やら特別な意味がありそうです。
では、その二箇所をご紹介すると、

 _†_ ④ イザヤ28:12 _†_
〈KJV〉 28:12 To whom he said, This is the rest wherewith ye may cause the weary to rest; and this is the refreshing: yet they would not hear.
28:12 主は彼らに、「ここに憩いがある。疲れた者を憩わせよ。ここに休息がある」と言われたのに、彼らは聞こうとしなかった。

 _†_ ⑤ 使徒3:19-20 _†_
〈KJV〉 3:19 Repent ye therefore, and be converted, that your sins may be blotted out, when the times of refreshing shall come from the presence of the Lord.
3:20 And he shall send Jesus Christ, which before was preached unto you:
3:19 ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。
3:20 そうして、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。

作詩者ホイットルはこの讃美歌に、「真に信頼出来る安らぎ〈refreshing〉を、神に立ち返って受け取りなさい」との救いへの招きと、「主よ、あなたの言葉〈Thy Word〉が今も変わりないことを、雨(聖霊)を降り注いで示して下さい」との祈りを込めたのです。


 ■ 四節 
 雨を降り注ぎ ひとりびとりに
 奇しき汝(な)が業(わざ)を 見させ給えや

 There shall be showers of blessing:
 Oh, that today they might fall,
 Now as to God we're confessing,
 Now as on Jesus we call!

作詩者ホイットルはこの第四節に、私の個人的な解釈になりますが、リバイバル集会の会衆が真の悔い改めに導かれるようにとの祈りを込めて、ある聖書箇所を敷衍したのではないでしょうか。

それは、「YouTube上の演奏例」としてご紹介した
  https://www.youtube.com/watch?v=pOxx-4rRI08
の前奏及び後奏部分で表示されている聖句です。

 _†_ ⑥ ホセア6:1-4 _†_
6:1 さあ、【主】に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。
6:2 主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。
6:3 私たちは知ろう。【主】を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。

これは、神の民の立ち返りの歌とも言われる大変美しく整った文章です。しかし、しかしです。6:3に続く6:4で主はこう言われます。

6:4 「エフライムよ、わたしはあなたに何をしようか。ユダよ、わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの真実の愛は朝もやのよう、朝早く消え去る露のようだ。

主は、エフライム(北王国を指す)とユダ(南王国を指す)に対して、「あなたがたの真実の愛は、朝もやか露のよう」に頼りないものだ、と手厳しく言われたのです。そして主に裁かれた北王国はアッシリヤに、南王国はバビロンに滅ぼされました。

このホセア6:1-3は、聖書のある部分を切り取って解釈することの危うさと、文脈を捉えて解釈することの重要性を学べる代表的な聖書箇所の一つです。正統的解釈を要約するとこうなります。
・国家壊滅の危機に直面して救いを求めるために当時の祭司たちによって書かれた祈祷文。
・バアル神への期待と同じことをこの式文で唱え、主の怒りを避けようとした。
・〈立ち返〉るという言葉はあるが、罪の告白も生れ変ろうとする決意も無く、純粋な悔い改めとは程遠い。

すなわち、ホセア6:1-4の御言葉は、
・不真実な“悔い改め”は、何の役にも立たないばかりか、主は忌み嫌われること
・雨に譬えて恵みを求める私たちの祈りが、美しい日本的情景描写や異教的雨乞いの様にならぬこと
を私たちに戒め、同時に真実な悔い改めへと私たちの背中を押して勇気づけてくれます。


 ■ むすび
ヨルダン川を渡って約束の地に入っていこうとする全会衆に、モーセが語って聞かせた歌の言葉があります。

 _†_ ⑦ 申命記32:1-2 _†_
32:1 天よ、耳を傾けよ。私は語ろう。地よ、聞け。私の口のことばを。
32:2 私のおしえは雨のように下り、私のことばは露のように滴る。若草の上の小雨のように。青草の上の夕立のように。

モーセは歌いました。「雨や露、小雨、夕立が植物を生き生きとさせるように、主なる神のことばは、静かに、しかし深く確実に、神の民一人ひとりの心に行き渡り、彼らを生き返らせ、新しい力を与える。」と。
そして、モーセが歌った如く、主なる神のことばは、

 _†_ ⑧ ヨハネ1:14 _†_
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

そしてイエス・キリストは、今日も大声で私たちを招いておられます。

 _†_ ⑨ ヨハネ7:37-39 _†_
7:37 …「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
7:39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。…

救い主イエスは、私たちの渇きを癒し生き返らせてくださります。それも、私たちの心の奥底から生いける水が川となって流れ出る程にまで豊かに、天つ恵みを土砂降りの夕立の如く注いで下さります。

アーメン



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2025年 メッセージ一覧

岡本牧師と共に味わう讃美の力 (第43回) 讃美歌503番 「春のあした夏の真昼」Bringing in the Sheaves ~シンシナティ日本語教会主催

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岡本牧師と共に味わう讃美の力 (第42回) 2025年7月(17)18日 JCCC讃美(42) 聖歌570番 「雨をふりそそぎ」 There shall be showers of blessing ~シンシナティ日本語教会主催

日本には雨の情景を美しく表現する文化があり、400以上もの表現呼び名があるそうです。その雨は、旧約聖書では専ら豊穣や神の養いと祝福の象徴、新約聖書では聖霊の働きと霊的渇きの癒しの象徴です。このことを見事に歌い上げた讃美歌が聖歌570番「雨を降り注ぎ」 There shall be showers of blessingです。

岡本牧師と共に味わう讃美の力 (第41回) 讃美歌66番「聖なる聖なる」 Holy Holy Holy ~シンシナティ日本語教会主催

この讃美歌は、多くの人々がそらんじて歌えるほど親しまれている讃美歌です。「聖なる 聖なる 聖なるかな」と三回繰り返すこの頌栄は三位一体を暗示していますが、この頌栄を初めて記したのは預言者イザヤ(イザヤ6:3)です。そして、この頌栄を次に記したのは使徒ヨハネ(黙示録4:8)なのです。つまり聖書に二回しか登場しない非常にレアな頌栄なのですが、それ以上に驚くべき事があります。この頌栄は二回とも、神が見せて下さった天上の光景、勝利の幻の中で歌われているということです。この幻を敷衍(ふえん)して歌うのがこの讃美歌です。

岡本牧師と共に味わう讃美の力 (第40回) 讃美歌第75番「ものみなこぞりて」All Creatures of Our God and King

資料1 「略解」にも書きましたが、この愛すべき讃美歌の歌詞は、動物と環境の守護聖人アッシジの聖フランチェスコにより1225年頃書かれた〈太陽の賛歌〉がパラフレーズされたものです。彼は「小鳥に説教する聖フランチェスコ」という有名な逸話を残し、映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」の主人公にもなりました。この〈太陽の賛歌〉では、文字通り、天地万物を創造された神の被造物、太陽や月・星、風や大気、清い空や水、日や光、そして夜を取り上げて創造主を讃えています...

岡本牧師と共に味わう讃美の力 (第39回) ~讃美歌406番「友とわかるる」 ~シンシナティ日本語教会主催

3月といえば卒業式など別れの季節でもあります。近年は大都市の公立学校(特に小学校)を中心に、かつての卒業式定番曲『仰げば尊し』ではなく、その時々の流行曲を歌う学校が増えてきているそうです。その様な風潮の中で、ミッションスクールの卒業式前日燭火礼拝等で歌われる讃美歌が、今回取り上げる406番「友とわかるる」です。この讃美歌は、メンデルスゾーン「6つの歌op.59」の第3番「緑の森よ」のメロディーに、第九代青山学院院長を務められた豊田實(1885-1973)が、彼の恩師であり『国際基督教大学(ICU)創立史』を執筆したC.W.アイグルハートとの別れを念頭において作詞(1953年)したものです。深い惜別の情を吐露しつつも同信の友ゆえの希望がみなぎり、祝福の祈りすら込められたこの讃美歌に導かれて聖書を探訪してまいりましょう。

岡本牧師と共に味わう讃美の力 (第38回) Lamb of God、「神の小羊」 ~シンシナティ日本語教会主催

今回取り上げた「Lamb of God」は、現代キリスト教音楽の歌手、作詞家、作家、ピアニストで、北米では長く一世を風靡し、「現代の讃美歌スタイル」を確立したと評せられるトゥイラ・パリス(Twila Paris、1958年~)により1985年に作詩作曲されました。1986年6月25日には、Top-ten singles (Adult Contemporary Christian Charts)の第2位にランクインしてます。日本では、リビングプレイズ266番「神の小羊」(2002年増補改訂版)、教会福音讃美歌45番「神の小羊」に収録されています。

岡本牧師と共に味わう讃美の力 (第37回)讃美歌118番「くしき星よ」Brightest and Best of the Sons of the Morning ~シンシナティ日本語教会主催

この讃美歌は、日本でも世界各地の教会でもクリスマスに歌われることが多いです。また、私たちの現行「讃美歌」でも、「降誕」に分類されてます。ところが原曲歌詞は、教会暦の顕現日(Epiphany、公現日とも言い、キリストが神の子として公に現れて下さったことを記念する日)1月6日のために書かれたのです。今回は、聖書と原曲歌詞の私訳に基づいて、この讃美歌の魅力をご一緒に味わって参りましょう。