岡本牧師と共に味わう讃美の力 (第44回) 讃美歌262番「十字架のもとぞ」 Beneath the Cross of Jesus ~シンシナティ日本語教会主催

岡本牧師と共に味わう讃美の力 (第44回) 讃美歌262番「十字架のもとぞ」 Beneath the Cross of Jesus ~シンシナティ日本語教会主催

あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り救いの歓声で私を囲んでくださいます。日本聖書協会『口語訳聖書』詩編 32編7節


 ■ まえおき
「十字架のもとぞ」 Beneath the Cross of Jesusは、スコットランドの詩人で敬虔なクリスチャンの女性クレフェインにより、彼女が38歳という若さでこの世を去る前の年1868年に作詩されました。
生と死のはざまに近づいた彼女は、自分が聖書の言葉通りの恵みに与ってきたことを、一篇の詩に託して証(あかし)したのです。そのクレフェインの真心こめた詩は、詩と一体になったメイカー作曲の優しいメロディー、そして由木康(ゆうき こう)牧師による素晴らしい訳詩と相まって、私たちを例えようもない救いの安らぎに誘い憩わせてくれます。


 ■ 讃美歌262番 第一節
イエス様は言われました。

 _†_ ① マタイ11:28 _†_
11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

この主イエスの招きに応え、ゴルゴダの丘を十字架に向かって一歩一歩踏みしめて登り行く息遣い、そして十字架のもとに辿り着いた安堵が聞こえてくるような、半音階的進行と巧みな転調が用いられた美しい旋律で歌われます。

1.十字架のもとぞ いとやすけき
  神の義と愛の  あえるところ
  あらしふく時の いわおのかげ
  荒野のなかなる わが隠れ家

クレフェインは、聖句を縦横無尽に引用して、主イエスの贖いにあずかる喜びを証しして歌います。

 ♬ 原歌詞一節
一節から、キーフレーズと聖句をご紹介します。

イエスの十字架の下に、
私は立ちたい。
乾ききった地にある
力の岩の影に。
そこは荒野の中の住まい、
道中の休息の場、
真昼の焼けつくような暑さと
日々の重荷からの。

「力の岩の影に」 ~原歌詞一節④行目
 _†_ ② 詩62:7 _†_
62:7 私の救いと栄光はただ神にある。私の力の岩と避け所(NIV: my mighty rock, my refuge)は神のうちにある。

「荒野の中の住まい」 ~原歌詞一節⑤行目
 _†_ ③ イザヤ32:1-2 _†_
32:1 見よ。一人の王が義によって治め、首長たちは公正によって支配する。
32:2 彼らはそれぞれ、風を避ける避け所、嵐を避ける隠れ場のようになり、砂漠にある水の流れ、乾ききった地にある、大きな岩の陰(KJV:a great rock in a weary land)のようになる。

「道中の休息」 ~原歌詞一節⑥行目
 _†_ ④ 詩篇78:15 _†_
78:15 荒野で神は岩を割り大いなる深淵の水を豊かに飲ませてくださった。

「真昼の焼けつくような暑さ」 ~原歌詞一節⑦行目
 _†_ ⑤ イザヤ4:5-6 _†_
4:5 【主】は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼には雲を、夜には煙と燃え立つ火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上に覆いとなり、
4:6 その仮庵は昼に暑さを避ける陰となり、嵐と雨から逃れる避け所、また隠れ家となる。

 ♬ 原歌詞二節前半
ああ、安全で幸福な隠れ家よ、
試みを経た甘美な避難所よ、
天国の愛と天国の正義が
出会う逢瀬の地よ!

「試みを経た甘美な避難所」 ~十字架、 ~原歌詞二節②行目
 _†_ ⑥ イザヤ28:16 _†_
28:16 それゆえ、【神】である主はこう言われる。「見よ、わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石(KJV:a tried stone)、堅く据えられた礎の、尊い要石。これに信頼する者は慌てふためくことがない。

 _†_⑦ ヘブル4:14-16 _†_
4:14 さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
4:16 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

「天の愛と天の正義が出会う逢瀬の場」 ~原歌詞二節③④行目
 _†_⑧ 詩篇85:10 _†_
85:9 確かに御救いは主を恐れる者たちに近い。それは栄光が私たちの地にとどまるためです。
85:10 恵み(ds,x)とまこと(tm,a)はともに会い義(qd,c,)と平和(~Alv' )は口づけします。

神の義と平和が口づけする表現によって、神の義と慈しみが究極的に融合することが預言されています。
しかし、裁きを要求する正義と、赦しを求める愛とを、どのように調和させることができるでしょうか。その答えが原歌詞二節後半で歌われます。

 ♬ 原歌詞二節後半
聖なる族長に
あの素晴らしい夢が与えられたように、
私にとって救い主の十字架は
天国への梯子のようです。

十字架は、「天国への梯子」  ~原歌詞二節⑦⑧行目
 _†_⑨ 創世記28:10-19 _†_
28:10 ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった。
28:11 彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。
28:12 すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。
...
28:16 ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに【主】はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」
28:17 彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

族長ヤコブが見た夢は、彼にとっては神の現れでしたが、天国へと続く道、すなわち十字架の予型(予告・象徴)です。十字架こそ、人知では解決不可能な問題に対する神の解決策です。


 ■ 省かれた原歌詞
ところで、英語圏の讃美歌でも讃美歌262番でも、クレフェインの原歌詞の第3節を省いていますが、そこではクレフェインの深い洞察が歌われているのです。

 ♬ 原歌詞三節
十字架の影の下、
その向こう側には、
深く広く口を開けた
怖ろしい墓穴の暗闇があります。
ですが私たちとの間に十字架が立ち、
その永遠の墓への
道を見張る番人のようで 、
救いのために両腕を広げています 。

クレフェインは十字架に一つの影だけでなく二つの影を見取っています。
一つは十字架が信仰者を守るために投げかける影、もう一つは十字架の向こうに横たわる死の影です。
しかし彼女は十字架が両手を広げる番人の如く立っていて、私たちが永遠の死に呑み込まれぬよう見張っている、十字架の影が境界(border)となっていると彼女は洞察しています。
十字架は救いであると同時に警告でもあります。


 ■ 讃美歌262番 第二節
さて、讃美歌262番の二節では、十字架の下に辿り着いたクレフェインが、主イエスを仰いでいます。

2.十字架のうえに われはあおぐ
  わがため悩める 神の御子を
  妙にもとうとき かみの愛よ
  底いも知られぬ ひとの罪よ

 ♬ 原歌詞四節
イエスの十字架の上で、
私の目には、
私のためにそこで苦しんだイエスの、
まさに死にゆく姿が時折映ります。
その時私はおののきながら涙を流し、
二つの不思議を告白します。
それは、 贖いの愛の不思議と、
私自身は値しないことです。

「私のために十字架で苦しんだイエス」 ~原歌詞四節①~③行目
 _†_⑩ マルコ15:25-41 _†_
15:25 彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
...
15:33 さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。
15:34 そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
15:35 そばに立っていた人たちの何人かがこれを聞いて言った。「ほら、エリヤを呼んでいる。」
15:36 すると一人が駆け寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒に付け、「待て。エリヤが降ろしに来るか見てみよう」と言って、イエスに飲ませようとした。
15:37 しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。
15:38 すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
15:39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子であった。」
15:40 女たちも遠くから見ていたが、その中には、マグダラのマリアと、小ヤコブとヨセの母マリアと、サロメがいた。
15:41 イエスがガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たちであった。このほかにも、イエスと一緒にエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。

「贖いの愛の不思議」 ~原歌詞四節⑦行目
神の愛は、見返りを求めず、ただ相手の幸福を願う愛です。神が人に注ぐアガペーの愛は、イエス・キリストの贖いの犠牲として十字架で現わされました。

 _†_⑪ Ⅰヨハネ4:10 _†_
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。


 ■ 讃美歌262番 第三節
そして、三節。クレフェインは渾身の力をふりしぼり、十字架のかげに立ち上がります。

3.十字架のかげに われは立ちて
  み顔のひかりを たえず求めん
  この世のもの皆 消ゆるときも
  くすしく輝く  そのひかりを

 ♬ 原歌詞五節
十字架よ、あなたの影を
我が住処とします。
私は日差しを求めません、
主の御顔の輝き以外の。
世が去り行くことに満足し、
損得を知りません。
罪深い我こそが唯一の恥であり、
十字架の栄光は我が誉れです。

「主の御顔の輝き」 ~原歌詞五節④行目
 _†_⑫ ヤコブ1:17 _†_
1:17 すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。

「世が去り行くことに満足し」 ~原歌詞五節⑤行目
 _†_⑬ ピリピ1:21, 23
1:21 私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。...
1:23 私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。

「十字架の栄光は我が誉れ」 ~原歌詞五節⑧行目
 _†_⑭ ガラテヤ6:14 _†_
6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇り(※KJVではglory)とするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。


 ■ むすび
この讃美歌では、素晴らしい和声の手法が用いられています。解説はご専門の方にお任せするとして、私が思い描いたことを一つ手短にお話しさせていただいて締め括らせていただきます。

この讃美歌の最後の音は、ニ長調の下の主音Dです。この音は、メロディーの動きの中では僅かしか聞こえませんが、作曲者メイカーは譜面の四段目冒頭の属七和音で緊張感を醸し出し、その最後の主和音の中で主音Dをゆったりと響かせています。このことで、「長い旅路の最後に辿り着いた安らぎ」を表現したんじゃないかなと私は想像しています。

その「長い旅路の最後に辿り着いた安らぎ」の場、そこは主イエスが両腕を大きく広げて死なれた十字架のもとです。その主イエスの御腕は、永遠の滅びへの道に両手を広げて立つ番人の手であると同時に、主イエスのもとに来る人々を喜び迎え抱きしめる腕でもあります。

その主イエスの御腕が、渾身の力をふりしぼりゴルゴダの丘を登り詰めて十字架上の主イエスを仰いでそこに立ったクレフェインを、抱きしめてくださった。
そして彼女は、十字架の影の向こう側で深く広く口を開けた墓穴の暗闇にではなく、主の御顔の輝きと十字架の栄光の光に包まれていった。

私たちもきっとこうなんだ ... と私は瞑想し平安に充たされた次第です。皆様はいかがでしょうか。


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この讃美歌は、日本でも世界各地の教会でもクリスマスに歌われることが多いです。また、私たちの現行「讃美歌」でも、「降誕」に分類されてます。ところが原曲歌詞は、教会暦の顕現日(Epiphany、公現日とも言い、キリストが神の子として公に現れて下さったことを記念する日)1月6日のために書かれたのです。今回は、聖書と原曲歌詞の私訳に基づいて、この讃美歌の魅力をご一緒に味わって参りましょう。