岡本牧師と共に味わう讃美の力 (第41回) 讃美歌66番「聖なる聖なる」 Holy Holy Holy ~シンシナティ日本語教会主催
6:1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、
6:2 セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、
6:3 互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。その栄光は全地に満ちる。」
6:4 その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。
6:5 私は言った。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の【主】である王をこの目で見たのだから。」
6:6 すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。
6:7 彼は、私の口にそれを触れさせて言った。「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」
6:8 私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」
日本聖書協会『口語訳聖書』イザヤ書 6章1節~8節
■ まえおき
この讃美歌は、多くの人々がそらんじて歌えるほど親しまれている讃美歌です。
「聖なる 聖なる 聖なるかな」と三回繰り返すこの頌栄は三位一体を暗示していますが、この頌栄を初めて記したのは預言者イザヤ(イザヤ6:3)です。そして、この頌栄を次に記したのは使徒ヨハネ(黙示録4:8)なのです。つまり聖書に二回しか登場しない非常にレアな頌栄なのですが、それ以上に驚くべき事があります。この頌栄は二回とも、神が見せて下さった天上の光景、勝利の幻の中で歌われているということです。
その幻を神が初めて見せて下さったのは、メシヤ預言が大きく進展しようとした矢先、北イスラエル王国を滅ぼした世界帝国アッシリヤが、南イスラエル王国の脅威また抑圧者として立ちはだかった時代でした。
そして二回目の幻は、メシヤ預言が成就し主イエスの十字架と復活を経て誕生した初代教会が世界に向けて福音を宣べ伝え始めた時、そのキリスト教会に対するローマ皇帝による大迫害下でした。
この様な神が見せて下さった天上の光景、勝利の幻を敷衍して歌うこの讃美歌は、「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方」(黙示録4:8)への讃美へと私たちを招いています。
■ 一節 聖三位一体の主への賛美
1. Holy, holy, holy! Lord God Almighty!
Early in the morning our song shall rise to thee.
Holy, holy, holy! merciful and mighty!
God in three Persons, blessed Trinity!
「聖なる 聖なる 聖なるかな」との頌栄が初めて記された聖書箇所をお読みします 。
_†_ ① イザヤ6:1-4 _†_
6:1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、
6:2 セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、
6:3 互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。その栄光は全地に満ちる。」
6:4 その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。
まず最初に、この幻を通して聖なる神の前に立たされたイザヤの反応をお話しします。
_†_ ① イザヤ6:5 _†_
6:5 私は言った。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の【主】である王をこの目で見たのだから。」
心の思いが外に出る器官である唇の汚れはその人としての存在の罪深さを現します。イザヤは信仰の人であり、当時の形骸化した礼拝や口先だけの神讃美を嘆き諌めつつ、自分を聖く正しく保とうと努めていたことでしょう。しかし「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】」の御前にあっては、ただ自分の罪深さを告白して自分は滅びると畏れおののくしかなかったのです。
_†_ ① イザヤ6:6-8 _†_
6:6 すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。
6:7 彼は、私の口にそれを触れさせて言った。「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」
6:8 私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」
イザヤを聖とする主
火には、ものを清める、あるいは裁くという意味がありますが、主はセラフィムによって祭壇の炭火を持ってイザヤの口を清めた、すなわちイザヤを聖なるものしてくださったのです。
※セラフィム:イザヤ6章にのみ現れる御使い。黙示録4-5章に登場する「生き物」もセラフィムか。
律法の書の一つ、レビ記で主はこう言われました。
_†_ ② レビ記20:26 _†_
20:26 あなたがたは、わたしにとって聖でなければならない。【主】であるわたしが聖だからである。わたしは、あなたがたをわたしのものにしようと、諸民族の中から選り分けたのである。』
主はイザヤを預言者として召す為に、レビ記で語られたことをイザヤに成就されたのです。
先日(2025/6/8)ペンテコステ記念礼拝を持ちましたが、私たちも、聖霊のバプテスマ、罪を焼き尽くす火により聖別された存在です。
讃美歌の二節に先に進む前に、もう一つお話ししたいことがあります。
一節二行目で 〈Early in the morning 〉 とわざわざ歌うのは何故だろうかと気になりませんか?
じつは、この「Early in the morning 朝早く」というフレーズは、聖書の中でさまざまな文脈で30回以上も使われています。いくつかご紹介しますと、
・アブラハムは、イサクを犠牲として捧げよという神の命令に従って朝早く出掛けた。 (創22:3)
・主はモーセに、「『わたしの民を去らせよ』と、朝早くファラオの前に立って語れ」と命じられた(出9:13)
・人々はイエスの説教を聞くために朝早く神殿に来た。 (ヨハネ8:2)
・週の初めの日の「朝早く」、女性たちはイエスの墓に来た。 (マルコ16:2)
二三の事例を除いて、人々が神を求めたり神の指示を受ける重要な行動を起こす時に使われています。このことから 〈Early in the morning 〉と歌うことの重みを感じていただけるでしょうか。
■ 二節 天上の礼拝
2. Holy, holy, holy! all the saints adore thee,
Casting down their golden crowns around the glassy sea.
Cherubim and seraphim, falling down before thee,
Who was and is and evermore shall be.
この歌詞は黙示録4:6-11の敷衍(ふえん)です
_†_③ 黙示録4:6-11 _†_
4:6 御座の前は、水晶に似た、ガラスの海のようであった。そして、御座のあたり、御座の周りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。
4:7 第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は飛んでいる鷲のようであった。
4:8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りと内側は目で満ちていた。そして、昼も夜も休みなく言い続けていた。「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」
4:9 また、これらの生き物が栄光と誉れと感謝を、御座に着いて世々限りなく生きておられる方にささげるとき、
4:10 二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。
4:11 「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」
〈Holy, holy, holy! all the saints adore thee,〉
聖徒とは「主に聖別された者」「きよめ分たれた者」、イエス・キリストの十字架の血によって罪をきよめられて、神の御用のために世から選び分たれた「罪赦された罪人たち」、私たちのことです。
「神とそのみわざを、聖徒たちが曇りない目で初めて眺めて賛美するところ、天の御国」、そこでの礼拝を二節は歌っています。
〈Casting down their golden crowns around the glassy sea 〉
(1)輝くガラスの海
この輝くガラスの海は神のご性質の象徴です。
①まばゆいほどの聖さ。ビルの窓ガラスに反射する真夏の日差しを直視できない如く。否、それ以上の。
②高貴さ。昔のガラスは普通曇って半透明でしたから、水晶のようなガラスは金や宝石のように貴重品でした。旧新約聖書にはglassが10回(@KJV)登場しますが、ガラスと訳されるのは黙示録4:6、15:2、21:18、21:21の4箇所のみ、他は「鏡」。
③神の栄光と人の誉れとは、大海原の如く広大無辺の隔りがあることの表現。
(2)自分たちの冠を投げ捨てた聖徒たち
ガラスのような海と表現された神の聖さの前に、聖徒たちは自分たちの冠を投げ捨て主を誉め讃えてます。神の偉大さの前には、人の忍苦・善きわざ(“功績”)は塵芥の如くであることの表現です。
〈Cherubim and seraphim, falling down before thee, 〉
黙示録4‐5章で、ただ「生き物」と言われているものが,イザヤ6章にのみに登場するセラフィムと、アダムとエバ追放後のいのちの木を守り、その後も聖書に登場するケルビムではないかと解釈されています。
〈Who was and is and evermore shall be.〉
過去、現在、永遠の未来に亘り、全てのもののご支配と、三位一体の神への礼拝が途絶えることはありません。
(3)二節の纏め
二節の締め括りでお話しするのもなんですが、この讃美歌66番にはバックコーラスが付いていて私たちを励ましているように思うのです。そのバックコーラスが歌うのはヘブル11:-1、12:-1です。
_†_④ ヘブル11:-1、12:-1 _†_
11:1 さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。
私たちが、預言者イザヤと使徒ヨハネに主が見せてくださった幻を歌う時、「雲のように私たちを取り巻いている多くの証人たち」がバックコーラスに加わって一体になって讃美するのです。
ご参考までに演奏例を一つご紹介します。
□リンク先: https://www.youtube.com/watch?v=ADmpdxCBQJQ
このリンク先はJ.S.バッハ作曲カンタータ第21番《わがうちに憂いは満ちぬ》BWV21の第二部で、この6:00から始まる第9曲がそうです。ここでは、ソプラノ、アルト、バスのコーラスと、テノールによる讃美歌(メロディーは讃美歌304番と同じ)歌唱が絡み合いながら同時進行し、両者が一体になって合唱が終えます。
歌詞は[資料4]をご参照下さい。
なお、このカンタータは長大なので第一部は別になっています。
□リンク先(第一部): https://www.youtube.com/watch?v=rtFVFNSJnj8
■ 三節 キリストにある勝利の歌
3. Holy, Holy, Holy! though the darkness hide thee,
Though the eye of sinful man thy glory may not see,
Only thou art holy; there is none beside thee,
Perfect in pow'r, in love, and purity.
暗黒が世界を支配する「終りの時」のありさまと、そこに栄光の王がこられて真の神の民に主が与える栄光が歌われます。ここではイザヤの預言(イザヤ60:1-3)と使徒ヨハネが見た幻(黙示録15章“キリストにある勝利の歌”)が呼応しているかのようです。
_†_⑤ イザヤ60:1-3 _†_
60:1 「起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。【主】の栄光があなたの上に輝く。
60:2 見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には【主】が輝き、主の栄光があなたの上に現れる。
60:3 国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。
_†_⑥ 黙示録15:1-4 _†_ ◆最後の七つの災い
黙示録15:1 また私は、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。ここに神の憤りは極まるのである。
15:2 私は、火が混じった、ガラスの海のようなものを見た。獣とその像とその名を示す数字に打ち勝った人々が、神の竪琴を手にしてガラスの海のほとりに立っていた。
15:3 彼らは神のしもべモーセの歌と子羊の歌を歌った。「主よ、全能者なる神よ。あなたのみわざは偉大で、驚くべきものです。諸国の民の王よ。あなたの道は正しく真実です。
15:4 主よ、あなたを恐れず、御名をあがめない者がいるでしょうか。あなただけが聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが明らかにされたからです。」
「火が混じった、ガラスの海のようなもの」(15:2)
ガラスのような海はすでに黙示録4:6に出て来ましたが、ここではそのガラスに火が混じっています。それは、「最後の七つの災い」(15:1)、「正しいさばき」(15:4)が行われているからです。
「彼らは神のしもべモーセの歌と子羊の歌を歌った。」(3)
出エジプトに於ける神の偉大な業を讃える歌(出エジプト15:1-18)と、子羊(イエス・キリスト)の贖罪をたたえる歌で、世々のキリスト者が待ち望んでいた裁きと救い、信仰者の勝利と神の完全支配の到来を
〈Holy, Holy, Holy! ...Perfect in pow'r, in love, and purity.〉
賛美している光景です。
■ 四節
最後に全被造物が賛美の合唱に加わり、創造原初において神が意図していたことが回復した栄光の有様を賛美します。
4. Holy, holy, holy! Lord God Almighty!
All thy works shall praise thy name, in earth, and sky, and sea;
Holy, holy, holy! merciful and mighty!
God in three Persons, blessed Trinity.
_†_ ⑦ 黙示録5:13 _†_
5:13 また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。「御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。」
〈All thy works shall praise thy name, in earth, and sky, and sea;〉
この箇所の背後にあるメッセージは、この世界で創造された神の意志に適ってその目的を全うしている者は、すべて神を賛美しているということです。
前回の讃美の力集会(2025年4月)で取り上げたフランチェスコの太陽の讃歌と共通するところがあります。
■ むすび
実は、今回の解説の準備に着手後まもなく、今日の冒頭でお話しした預言者イザヤが召命を受けた時に似た霊的葛藤を私も経験しました。〈Holy, holy, holy! Lord God Almighty!〉との讃美、天上の幻を、私のような罪深い者が解説することのとんでもなさに気がついたのです。
主は言われました。
_†_ ② レビ記20:26 _†_
20:26 あなたがたは、わたしにとって聖でなければならない。
私もきよくなりたい、そして主の御用に用いられたい、との思いが込み上げて来ると同時に、御言葉が生き生きと蘇って来ました。ひとつは、
_†_ ⑧ 詩篇51:2, 7 _†_
51:2 私の咎を私からすっかり洗い去り私の罪から私をきよめてください。
51:7 ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください。そうすれば私は雪よりも白くなります。
もう一つは、ツァラアト(※レビ記13-14章に詳述あり)を患った人が主イエスのもとにひざまずき「お心一つで、私をきよくすることがおできになります」と懇願した時の主イエスの言葉、「わたしの心だ。きよくなれ」(マルコ1:41)です。
主イエスは ぶどうの木の譬えでこう教えてくださいました。
_†_ ⑨ ヨハネ15:3-5 _†_
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
どのような事物も人もそれ自体では聖ではありえませんが、神との関係に与っている限り、主はそれらを聖なるものとされます。聖ではあり得ない罪人が、神の愛、キリストの贖いによって救われ、聖霊の働きにより聖なるもの、聖徒として受け入れられています。
Holy, holy, holy! Lord God Almighty!
Holy, holy, holy! merciful and mighty!
今は地上で礼拝と讃美を捧げる私たちですが、時が来れば天上の大コーラスに加わるのです。
アーメン