岡本牧師と共に味わう讃美の力 (第38回) Lamb of God、「神の小羊」 ~シンシナティ日本語教会主催
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
( ヨハネ3:16 、 新改訳2017)日本聖書協会『口語訳聖書』ヨハネによる福音書 3章16節
■ まえがき
リクエストをいただいたとき、実は非常に驚き、かつためらったのです。と言うのは、「wash me in His precious blood」と言う一見グロテスクな歌詞が繰り返し歌われることです。
しかし、黙想をもって解説の準備を進めるうちに、幸いなことに、永久に変わることがない御言葉の数々によって、救われた喜びへと導かれる自分を発見したのです。今日は、その御言葉の世界をご一緒に探訪してまいりましょう。
■ ♬~ 一節 1-2行目
Your only Son no sin to hide
But You have sent Him from Your side
あなたの唯一の息子には隠すべき罪はないが、
あなたは彼をあなたの側から遣わし、
この歌詞から思い出される聖句は沢山ありますが、二つご紹介します。
_†_ ① Ⅰペテロ1:18-20 _†_
1:18 ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
1:19 傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
1:20 キリストは、世界の基が据えられる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために現れてくださいました。
_†_ ② Ⅰヨハネ4:10 _†_
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
■ ♬~ 一節 3行目
To walk upon this guilty sod
この罪深い地上を歩み行かせ、
この一節 3行目は地味な歌詞ですが、福音書に記されたイエス様の地上の御生涯を思い起こさせる、珠玉のような歌詞です。その御生涯とは、
_†_ ③ ピリピ2:6-8 _†_
2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
御子イエスは、イザヤ預言(④イザヤ53:1-10)の通り「苦難のしもべ」として罪深い地上を歩まれました。
ですから、
_†_ ④ ヘブル4:15 _†_
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
_†_ ⑤ ヘブル5:7-9 _†_
5:7 キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。
5:8 キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、
5:9 完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、
人間らしい生き方を教え導く教師、善き羊飼に主イエスはなって下さったのです。
この讃美歌一節 3行目の短いフレーズによって、この主イエスを思い浮かべます。
■ ♬~ 一節 4行目
And to become the Lamb of God
神の子羊とならせた
「神の子羊」という言葉は、イエス様の呼び名、称号の一つですが、もうひとつ大事な意味があります。それは、
_†_ ⑥ 創 22:8 _†_
22:8アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に進んで行った。
と書かれているように、「神の子羊 」には、神ご自身が備えてくださった生贄の羊と言う意味もあります。
さて、二節に進みます。
■ ♬~ 二節
彼らはあなたの愛の贈り物を十字架につけ、
死ぬ彼を嘲笑し、scorned(軽蔑した)。
謙虚な王を彼らはfraud(偽善家、見かけ倒し)と呼び、
神の子羊を犠牲にした。
マタイによる福音書にはこう書かれています。
_†_ ⑦ マタイ27:38-44 _†_
27:38 そのとき、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右に、一人は左に、十字架につけられていた。
27:39 通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。
27:40 「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
27:41 同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。
27:42 「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。
27:43 彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
27:44 イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
目を背けたくなる悲惨な情景が記されていますが、聖書は私たちにこう呼びかけます。
_†_ ⑧ ヘブル12:2-3 _†_
12:2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
12:3 あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。
続いてコーラス部です。
■ ♬~ コーラス (3行目)
Oh wash me in His precious blood
ああ、彼の尊い血で私を洗い清めてください。
「血で私を洗う」という言葉だけでもグロテスクなのに、「in」(何々の中で)という前置詞までも使われてます。
この讃美歌を愛唱される方々は平気なんだろうかとつい思ってしまうのですが、作者は黙示録7:14から着想を得たと思われます。
_†_ ⑨ 黙示録7:13-14 _†_
7:13 すると、長老の一人が私(※使徒ヨハネ)に話しかけて、「この白い衣を身にまとった人たちはだれですか。どこから来たのですか」と言った。
7:14 そこで私が「私の主よ、あなたこそご存じです」と言うと、長老は私に言った。「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。
【NIV】 7:14 ... they have washed their robes and made them white in the blood of the Lamb.
【KJV】 7:14 ...(they) have washed their robes, and made them white in the blood of the Lamb.
★御言葉理解のキーワード 「血」
この御言葉理解の鍵となるのが「血」です。
_†_ ⑩ 申命記12:23 _†_
12:23 ただ、血は決して食べてはならない。血はいのちだからである。いのちを肉と一緒に食べてはならない。
聖書では一貫して「血はいのち」を表し、特に新約聖書がイエス・キリストの血という場合にはキリストの死だけでなく、生と死、すなわち、イエスがその生と死とによって私たちのために成し遂げて下さったすべてのことを意味します。
ですので、「子羊の血」を「主イエスのいのち」と置き換えると意味がハッキリします。
主イエスもこれに似た表現を使っておられます。
_†_ ⑪ ヨハネ6:53 _†_
6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
主イエスは「私の命をあなたの中に取り入れななさい」と食物の比喩を用いられたのです。
聖書には、ギョッとするような表現がところどころにありますが、字面に囚われず真意を理解してこそ救いの素晴らしさが判ります。
その時イエス様は、ご自分の苦悩が無駄でなかったこと満足されることでしょう。
コーラス3行目の「Oh wash me in His precious blood/ああ、彼の尊い血で私を洗い清めてください。」に戻ります。
この歌詞の背景にある黙示録7:14は、ハイデルベルク信仰問答 問73の証拠聖句になっていることからも判るように、「子羊の血で白く」するとは洗礼のことです。従って、これから洗礼に与る喜びにあふれる求道者の方や、それを祝福する信徒の方々に相応しい讃美歌です。
なお、詳しい説明は割愛しますが、このコーラス部三行目の原歌詞は、ギリシャ語訳聖書および英訳・日本語訳聖書とも文法的に違っていることを心に留めていただく必要があるかと思います。
・コーラス部三行目の歌詞
「Oh wash me in His precious blood/彼の尊い血で私を洗い清めてください」
・新約聖書(ギリシャ語) : 「洗う」も「白くする」も、直説法アオリスト能動態3人称複数形
※完結した出来事として動作・現象を示す。現在の普遍的な事柄を表すためにも使われることがある。
・KJV, NIV、黙示録7:14
「 ...have washed their robes, and made them white in the blood of the Lamb.」
・新改訳2017聖書、黙示録7:14
「この人たちは…その衣を洗い、子羊の血で白くした」)、
■ ♬~ 三節 1-3行目
私は道に迷い死んでいたはずでした。
しかしあなたは私をあなたの傍らに連れて来てくれました。
あなたの杖と鞭(むち)によって導かれ、
信者や国民を羊に譬え、羊飼いを神や為政者に譬えた聖書箇所で最も代表的な箇所は,詩篇23編とルカ15章でしょう。その両方が三節の歌詞の背景になっています。
_†_ ⑫ 詩 23:1-6 _†_
23:1 【主】は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
23:4 たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
23:5 私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
23:6 まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも【主】の家に住まいます。
_†_ ⑬ ルカ15:4-7 _†_ (並行箇所 マタイ18:12-13)
15:4 「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、
15:6 家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。
15:7 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
この詩篇23編とルカ15章との密接な関係については別の機会に譲ります。
■ ♬~ 三節 4行目
And to be called a lamb of God
神の子羊へと召されました。
この歌詞は、ヨハネ21章に記された、よみがえられた主イエスがペテロに三度「わたしを愛していますか」と問うた出来事が背景にあるように思われます。イエス様はペテロの最初の返事に対して、「わたしの子羊を飼いなさい」(15)と命じられました。この言葉を背景にして、あるいはlamb「子羊」が「愛すべき人」と言った愛情をこめた呼びかけにも用いられることから、この讃美歌の締めくくりでa lamb「子羊」と歌われたのでしょう。
_†_ ⑭ ヨハネ21:15-17 _†_
21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」
21:16 イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
21:17 イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
ここでは、イエス様の栄えある称号「子羊」で私たちが呼ばれています。ということは、私たちは神に愛され、また神から遣わされた存在です。ここに、主イエスの子羊とされた私たちの喜びとさいわい、特権があります。
■ むすび
ルカ15章( ⑬ ルカ15:4-7、並行箇所 マタイ18:12-13)では、羊飼いは見つけた羊を肩に担ぐとあります。
一旦迷い出た羊は羊飼いに背負われて連れ帰ってもらうしか助かる道はないからだそうです。
この羊飼いは、旧約聖書に記されています。()
_†_ ⑮ イザヤ46:3-4 _†_
46:3 ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。
46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。
この聖句は、マーガレットF.パワーズ作の詩「あしあと」の源泉になったのではないかとも言われています。
今は、さまざまな価値観や情報、政治的イデオロギーや権力が跋扈し竜巻の如く吹き荒れていますが、「この私がイエス様に担われている!」ことを思うと、「アッバ、父よ」と讃美せずにはいられません。
■ 備考・参考資料
資料1 「 Lamb Of God-lead-C」は、本集会の主催者JCCCが使用ライセンスを保有しております。